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マルハナバチのつぶやき

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信州の週末田舎暮らし、植物、昆虫、旅行、山歩き、自転車旅の記録です。そして歴史歩きも。
Bumblebees' Garden in English
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シャンパーニュ

2019/06/26 01:47
シャンパーニュ地方の中心、ランスから車で20分ほど行った小さなワイナリーを経営する家族が持つ家に宿泊。

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なだらかな谷いっぱいにぶどう畑が広がる。

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宿の主人が2年前に自ら作ったオブジェがある。

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我々の泊まった家は下が居間と台所、二階に2つベッドルーム。

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スーパーに夕食の食材を買いに行く。パリではモノプリによく行っていたけれど、こちらのは郊外型で、とても大きい。肉のパックの量がどれも多い。この日はご飯を炊いて、カレーとステーキ。

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翌朝、瓶詰めするところを見せてもらう。こちらは年に1万2千本ほど生産するとのこと。

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18歳の娘さんが英語を話さない両親に代わって説明してくれる。この日は午後バカロレアの試験があるそう。将来は編集者になりたいという。

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この家は100年前からワインの醸造をしているそうで、キャップにあるのは、今のご主人のお爺さん。

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村を少し歩いてみる。可愛らしい郵便受け。

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これはマルハナバチの巣だと思う。

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菜園で野菜を作っている。

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あちこちに小さなワイナリーがある。そして所々に昔の写真がある。

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昔の写真は興味ふかい。



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藤田嗣治の礼拝堂

2019/06/24 15:11
パリからオランダに向かう途中、ランスとブルージュに一泊ずつすることにした。ランスを選んだのは、藤田嗣治の礼拝堂を見るためだ。昨年、彼の終の住処で見たイエスやマリアの壁画が印象深かったので、彼が最晩年に作ったというチャペルを是非見たかった。

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シャンパンで有名なマム社のそばにフジタというバス停がある。小さなチャペルだ。

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可愛らしい天使の像。

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主祭壇にはマリアとキリストの絵。

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最後の晩餐。

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天地創造。

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受胎告知。

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イエスの磔刑。

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大聖堂を見てきた目には小さなチャペルだけれど、内部のそこいら中にフジタが最晩年に描いた壁画が描かれている。そしてここにフジタと夫人が眠っている。
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ノートルダム寺院

2019/06/17 05:42
今回のパリ市内はどこに行きたいというのは無いけれど、火災にあったノートルダム寺院がどんな風になっているのか確かめたかった。

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サン=ジェルマンの方からシテ島に向かうと前面の二つの塔が見えてきた。見た目は以前と変わらないからとりあえず、良かったなと思う。

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昨年は、この辺りから、上まで登った。今、上まで登って見たら惨状に目をそらしたくなるんだろうか。

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横に回ると足場が組んであるのが見える。

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ノートルダム寺院から煙が上がっているニュースを見たときには、日本に居る私でも、嘘であってほしいと思った。でも今回、外側だけは残っているのを見てちょっと安心した。

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HECの卒業式

2019/06/15 20:59
MBAの卒業式に親が行くなど、考えていなかった。けれども今回はちょうどオランダに行く用事がある。そして歌のステージの方を優先してMBAの卒業式には出席してやらなかった娘が、とにかく出るべきであると言うので、息子の卒業式に出席した。HECはパリ郊外の広大な敷地の中にある。

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会場は巨大なテント。と言っても建築物みたい。

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式場内部正面はスケルトンになっていて、奥に森が見える。

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卒業生、写真撮影。

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ガウンと、帽子と、藤色のスカーフは式典前に支給される。式は卒業生の入場で始まる。この時と、最後に一人一人名前を呼ばれて証書を渡された時が一番感動。
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式終了後のカクテルパーティ。

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エレキのバイオリン演奏。式の最中の演奏も、とても良かった。

日本人の卒業生は十数人参加していたそうで、ご両親や奥さん、赤ちゃんなどもいる。私も日本からわざわざ来る価値があると思った次第です。
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父の裁縫箱

2019/06/08 14:17
ミシンをやっていて、ふと裁縫箱に目がいった。

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父は75歳まで働いていた。退職後、日本橋の雑貨卸商に勤めていて浦和から通っていた。最後の頃は町内のちょっとした仕事を担当する閑職、年寄り居るとちょっと便利ですという存在だったと思う。もともと激しい気性ではない、おとなしい人間に入るだろう。でも私の小さい頃は家の貯金をはたいて買ったというオートバイで、よく釣りに行っていた。マージャンも良くしていた。
でも年取ってからの楽しみは大工だった。特に退職してから79歳で亡くなるまで、動ける間は毎日物置に首を突っ込んで何か作っていた。その頃、私がこんなのを作って欲しいと図を描いて頼んだのが裁縫箱だ。今となっては父が作ったものといって、これしか残っていない。たくさん残っていても困るけれど、一つだけというと、愛おしい。
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久しぶりにミシン

2019/06/07 14:36
一人で東御に来るのは1年以上ぶり。この後半月ほど日本を留守にするから、昨夜来て2泊で畑の手入れをして、ワラビ採りにも行くつもりでいた。ところが今日は朝から雨。降水確率が100パーセント。外に出るのは諦めて家の中にいる。
久しぶりにミシンを取り出す。使い方も忘れているかと、そしてミシン機能不全ではと、心配したけれど、なんとか使えた。まず、藍染の麻の暖簾の白い部分がよれて穴の空いたのを補強。

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これは応急処置で、この夏持てばいいかというところ。藍染は殺菌作用があるとか、布地を強くすると言うけれど、この暖簾の白いところだけよれているのを見ると、よく理解できる。

あとは昨日軽井沢のショッピングモールのAIGLEでそれぞれ50パーセントと70パーセントオフで買ってきたズボンとシャツの裾あげ。

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とりあえず必要性が高い作業を極めて大雑把に済ませた。
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手作り石鹸

2019/05/27 14:55
棚の箱を開けたら思わぬものが出てきた。

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手作り石鹸。作ってから十年ぐらい経っている。この頃、取り出してみると10年以上そのままにしてたというのが多くなってきた。ジャム、果実酒なんて保存食ばかりでなく、フェルトで作ったバックだの、編みためた靴下だの。そして買い貯めたいろいろなもの。ゴミ屋敷ってのも、あながち人ごとじゃなくなってきた。
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びわ湖疎水船

2019/05/13 21:03
三井寺近くの大津閘門から乗船して蹴上まで約8キロのびわ湖疎水を船で行く体験をした。疎水の着工は明治18年。未曾有の大土木工事だった。

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大津の街にはまだ市電が走っていた。JRで大津駅を降りて、琵琶湖畔港にある京阪石山本線の三井寺駅の方まで降りの道。

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びわ湖の水を二ヶ所から取水する大津閘門。びわ湖疎水の高低差は4メートルで、琵琶湖が高くて京都が低い。

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12人乗りの船。疎水の幅は狭いからこの大きさがリミットだろう。

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すぐに第1トンネルの入り口。

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日本で初めて竪坑方式で作られた2436メートルのトンネル。

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途中に疎水を計画した京都府第3代知事の北垣国道の扁額がある。

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トンネルは長くて出口が近づくと明るさが目にしみる。

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途中にかかる橋に煉瓦造が残る。

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第3トンネル、長さ850メートル。各トンネルの入り口には伊藤博文、山県有朋ら明治の元勲の扁額がかかる。

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疎水べりにアオサギがいた。

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第3トンネルを抜けて旧御所水道ポンプ室前で終了。

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建物の設計は赤坂迎賓館や奈良国立博物館などを手掛けた片山東熊。

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ここから船はインクラインで運んで、下でもう一度疎水に乗せる。

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インクラインのそばには21歳で疎水の設計者として起用された田邊朔郎の像が立つ。

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そばには彼が建てた殉職者の碑も立つ。

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のちに作られた地下を通る第二疎水の水と合流させて、ここから蹴上発電所に水を流す。

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蹴上発電所は日本初の営業用発電所であり、その電力で京都の市電は日本最初のものになった。

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この後、びわ湖疎水の流れる南禅寺の水路閣の下を通った。

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水路閣の上は今も疎水の水が流れている。

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疎水沿いの哲学の道を行き、永観堂の見返り阿弥陀を拝観。

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午後は鹿ケ谷から大文字山に登る。霊巌寺のあたりにマムシ出没注意とある。途中、土色のヘビに会い、ワッと声をあげるも、歩き続ける。山頂からの景色、今日はちょっと霞んでいた。

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最期の方に天の岩戸がある。

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京都に勧請した伊勢神宮のようで内宮があり外宮もある。

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階段を登って、

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伊勢神宮遥拝所がある。

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下りきって再び蹴上に戻った。








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京都に来た

2019/05/12 21:09
あと1ヶ月妙に忙しいので迷ったものの予定通り京都に来た。琵琶湖疎水を船で巡りたいし、葵祭りも見たい。京都移住計画も立てていたのだし、叶わないなら月一京都と考えていたのだから、寝るところを3泊京都にしただけと捉えることにした。その意味ではアンテルーム京都は京都駅八条口から歩いて10分以上もかかるものの、パソコンを使ったり、本を読むのに極めて快適、しかもこの時期お安いのはありがたい。

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今回は携帯用の照明を持参した。

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最近、何度も読み返しているのはこの本。余命があまりないと知った筆者が死ぬなら京都がいいと思い、実行に移した。私もこの先それほど長く生きるとも言えないから、やりたいことをやるぞと思う。「死ぬなら京都が一番いい」は、とてもわかりやすく京都の魅力を解説している。それで今日の午後はまずは小林玖仁男氏おススメの京都駅。

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京都拉麺小路で京都の味噌味チャーシュー麺を食べる。もう3時過ぎだったので、さほど並ばなかったけれど、お昼時は凄い人だろう。細麺でチャーシューたっぷり、味が素晴らしい。ただし我が家のいつもの味の倍の濃さ。次に抹茶ソフトを目指して中村藤吉に行くものの、歩き食べのソフトクリームではなく、席について食べる形式で、並ぶズクは無かったので取りやめ。

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原広司氏設計の京都駅ビルはやっぱり素晴らしい。ちょうど軽音楽の演奏をやっていた。ザ・ピーナッツと坂本九を聴いて昔を振り返る。







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熊野速玉大社 熊野5

2019/04/06 23:35
 新宮市は熊野の中心都市に思えた。木材の集散地として栄えた。中上健二、佐藤春夫はここの出身である。

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 熊野速玉大社に参詣する。

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  朱塗りの建物が美しい。

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  境内にある巨大ななぎの木は御神木。そばにあるみかん屋さんが枝をくださる。

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  速玉大社は熊野川の河口に面している。対岸は三重県。かつてこの川をいかだに組んだ木材が上流から運ばれてきた。この日見た熊野川は穏やかだったけれど、時に激しい洪水を起こしてきた。

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  境内にある売店では様々なみかんを売っている。このあたりにはみかんの専門店が多く、聞いたことのない様々なみかんが売られている。何種類か買ってみた。

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  目に付いたのは和歌山県の飛び地である北山村にしかないというジャバラ(邪払)という柑橘類。このあとジャバラ関連商品は花粉症に利くなどで、いろいろなところで見た。北山村は人口400人ちょっとの村ながら健闘している。大台ケ原方面から来たいかだに組んだ材木の中継点だったことから、木材集散地の新宮との関係が深かった。そのせいで和歌山県に残ることを望み、県を作る時に三重県と奈良県に挟まれた日本で唯一の村からなる飛び地になったという。

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 速玉大社の境内にはジャバラの小さな木が植えられていた。

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補陀洛山寺 熊野4

2019/04/05 15:20
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熊野那智大社を海岸近くまで下って来ると補陀落山寺がある。この寺では観音様の南方補陀落浄土を目指して、生きながら渡海する補陀落渡海が行われていた。山形県で見た僧侶のミイラ、即身仏になるのと同じような考え方か。

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今は面していないけれど、かつては境内が直接海に面していたのだろう。

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境内には補陀落渡海した人の名前と、船の形を彫った石碑が立っている。

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868年から1720年に補陀落渡海した25人ほどの名前が見える。

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こちらの絵は大斎原にあった補陀落渡海の絵。

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補陀落山寺の再現した船のある建物は閉まっていてみられなかったけれど、こちらには上の絵から起こしたらしい、そして多分補陀落山寺の船と同じ形と思われる模型が展示されていた。四方に鳥居がある。建物の中に数日分の食料とともに僧侶が入り、中からは出られなくしてしまう。ここの海岸をはなれれば黒潮によって遠くに流されてしまう。
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青岸渡寺 那智滝 熊野3

2019/04/04 21:04
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熊野那智大社の隣に青岸渡寺がある。もとは那智滝を中心に神仏習合だったものが、明治になって別々になった。神仏分離令では、お寺が姿を消すことが多い中で、こちらは残った。

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青岸渡寺は那智大社よりも活気があるように見える。それもそのはず、西国札所33カ所の第1番だ。江戸時代に熊野詣ではあまり盛んで無くなり、でもその代わり伊勢参詣のあと、伊勢路を通って青岸渡寺に来る人は多かったようだ。

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おりしも桜が満開。

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青岸渡寺から石畳の道を下って、那智滝に近づく。

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近づくと、迫力が増す。

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落差133メートル、海からも聖なる滝が見えるロケーション。

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滝の上の、銚子口は三筋になっている。
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大門坂から熊野那智大社 熊野2

2019/04/03 21:45
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熊野三山の旅の始まりは那智大社から。大門坂を歩く。鳥居をくぐり、橋を渡ると石畳の登りの道になる。

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石畳の道の両側にある夫婦杉。

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登りはいなくて、下りの人とすれ違う。バスで来たら大門坂は下りで体験するというのが、負担が少なそう。

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だいぶ登って、大社まであと少しの所に実方院という、上皇らが過ごした跡があった。それから南方熊楠が2年ちょっと過ごした家もあった。


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海が見える。

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那智の滝も見えてきた。

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階段を登りきると熊野那智大社に出る。

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八咫烏が登場。


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エルトゥールル号の遭難と白蝶貝の採取 熊野1

2019/04/02 20:00
旅の始まりに、富士山が見えると嬉しくなる。
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4月2日から5日まで熊野の旅。関空イン・アウトでレンタカーの旅。いつも通り、運転はお任せで、とっても快適。

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西海岸を南下して潮岬に出る。本州の最南端にあたり、陸繋島にある。串本はその陸繋砂州(トンボロ)上にある街だ。陸繋島の東には大島がある。民謡で唄われているように、かつて串本と大島は巡航船が繋いでいたけれど今は立派な橋で繋がっている。大島にかけての海には近畿大学のマグロ養殖場が広がる。昼食はこの近大マグロ丼をいただく。トロリとして美味。

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潮岬を南に行けばオーストラリアだ。

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潮岬の付近は芝生に覆われた気持ちのいい所になっている。ここに資料館があって、かつて串本の人々がオーストラリアのアラフラ海に白蝶貝の採取に行っていた時の資料が展示されている。

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白蝶貝はボタンなどに使用され、高価に売買されていた。

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白蝶貝の採取のための潜水は危険を伴う。

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頭にはタコの頭みたいのをつけ、

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潜水服をつけた。命を落とす人が多かった。

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アラフラ海の木曜島が活躍の中心だった。

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大島の東端の岩礁では1890年(明治23年)にオスマントルコ帝国のエルトゥールル号が遭難している。587名が死亡、救出されたのはわずか69名。この時の救出にトルコの人々が感謝していて、イラン・イラク戦争時に日本人救出のために飛行機を用意してくれた。内田聖陽主演の「海難」の映画の最初にはエルドアン大統領が挨拶していた。
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三渓園

2019/04/02 05:47
横浜に行く機会があるといつも三渓園に足を伸ばしたいと思っていた。でも、ちょっとアクセスが悪い。今回は三渓園を訪れる為に横浜に行った。何しろ桜の季節である。原三渓は生糸の取引で財を成した実業家で、この地に屋敷を構え、各地の由緒ある建築物を移築して、人々に開放した。原三渓の足跡を辿る展示によれば茶人、画家でもあり、多くの人々と交流があり、岡倉天心、夏目漱石、芥川龍之介などの名もある。

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園内に入ってまず目につくのは池の向こうの山にある三重塔。山口の瑠璃光寺のもこんな風なんだろうか。

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山に登って見ると、しっかりした作りの塔だ。この辺りから昔は海も見えたのだろう。

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屋根のある橋。マジソン郡じゃないけれど、橋に屋根が付いているのは惹かれる。

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こんな風な西本願寺の飛雲閣みたいのもいい。東本願寺の渉成園もこういう建物だった。

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折しも桜が満開で、躑躅、木蓮の花木の他、下を見ればスミレなど草花が咲く。園内はとても広く、自然な風情。

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春本番を実感する一日だった。3月31日。

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大島のキョン

2019/03/26 10:29
山上たつひこの漫画「がきデカ」の、主人公こまわり君は時々「八丈島のキョン」のポーズをした。あの頃、八丈島にはキョンという、犬ぐらいの大きさの鹿がいると知って、いずれは対面したいものだと思っていた。そんな小さな鹿がいるなんて可愛いではないか。今日は八丈島ではなくて、伊豆大島でキョンに対面した。


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  都立大島公園は植物園、椿園、動物園からなる広い公園である。私の最大の目的は動物園に行ってキョンに会うこと。動物園はライオンとか象のような派手な動物はいなくておっとりした雰囲気。以外と広くてキョンがなかなか見つからない。やっと肩に赤い大きなオウムを乗せた飼育員の方を見つけ聞いたら、わざわざ案内してくれた。

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 キョンは動物園の目立たないところに飼われていた。それもそのはず、大島動物園では、台湾や中国南部にいるキョンを飼っていたら台風で壊れた柵の間から逃げ出し、天敵がいないことからあっという間に増えて今や人間の人口7500人を超す1万頭以上になり、困った存在なのだ。あと、大島では猿も人より多い。

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  キョンの園舎は上からしか見られない。だから目の前でじっくり見るわけにいかない。

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 中型の犬よりは大きい。鹿ほどはスマートな容姿ではない。全体に茶色っぽい。 

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  お尻のあたり、ちょっと不格好。

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 前日で椿祭りが終わった椿園の椿の花は盛りの時期を過ぎている。大島の椿というと、やぶ椿だけれど、こちらには様々な椿の木が集められている。でも私にとってうれしかったのは園内のあちこちに大島桜が咲いていたことだ。

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 大島桜は色が少し白くて、花の時には葉が少し出ている。

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 ソメイヨシノのような華やかさはないけれど、落ち着いた味わい。

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 園内のシダは芽を出していた。
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大島三原山

2019/03/25 20:00
  ジェット船で行く日帰りのツアーに参加したという人の話を聞いて,早速大島に行ってきた。往復の船代よりもはるかにお安い料金でバスツアーまでついている。竹芝桟橋から1時間45分で岡田港に着いた。

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まずは西海岸を南下して、通称バームクーヘンと呼ばれれる千波地層切断面を見学。

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大島は今日まで何度も噴火を繰り返し、火山の標本みたいな島だ。ジオパークにもなっている。

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ここから南の方に島が見える。左の三角形の島が利島(としま)。左側が新島。真ん中にうっすらと見えるのは神津島。左の方に見えるはずの三宅島は良く見えない。

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元町から御神火スカイラインを登りだすと、北の海の向こうに富士山が見えてきた。

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昔は分布状態から富士山から伊豆、小笠原にかけてを富士火山帯と言っていた。今は構造からプレートテクトニクスで説明するようになった。つまり北アメリカプレートとフィリピン海プレートの境目に沿って火山が分布する。フィリピン海プレートの先端に富士山があり、相模湾から南に伊豆小笠原海溝がのび、それに沿って伊豆七島などの火山がある。

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三原山山頂口から三原山(758m)を眺める。二重の外輪山の上から眺めたことになる。前に広がるのがカルデラだ。道が内輪山に向かって続いている。往復2時間ほどだから行きたいところだけれど、ここは1時間の滞在。それにここから外輪山をちょっと行けば火口展望台があることに後から気づき、残念な気持ちが残った。ま、今回は大島の下見ということにしよう。

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大島観光ホテルで「島っこ御膳」の昼食をとる。金目鯛の煮付けや明日葉を利用した料理が並ぶ。こちらのホテルは標高500m。昭和61年の外輪山の外側からの噴火としては500年ぶりの大噴火で、ホテルのすぐ前まで溶岩が来たけれど奇跡的に建物は残り、今も営業を続けている。眼前の植物でおおわれているカルデラは、噴火当時は岩がごつごつであった。源泉が近くにあるものの、飲料水はすべて運んでいるという。
 大島に行く前日にNHKプロジェクトXの、三原山噴火時に13時間で完了した「史上最大の脱出作戦」を見た。昭和61年当時の人口1万人の全島民脱出作戦だった。溶岩流は元町港の200m手前で止まり、1カ月後に島民が帰島した。あれから30年、そろそろ次の噴火があるかもしれませんと島の人が言っていた。
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チビのチューリップ

2019/03/23 15:09
東御では桜の開花は1ヶ月も先だろうし、チューリップもスイセンもまだまだ。ところがチビのチューリップだけは咲いている。

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オランダから帰る時にいつもチューリップの球根を買って帰る。たいがいは黒か青にする。ところが3年前に買った黒のチューリップが咲いてみたら、出来損ないみたいに背が低くて赤色だった。業者が間違えて、あるいは故意に入れたのかと腹立たしかった。

チューリップは、よほど上手に育てないと翌年は咲かない。従って私のチューリップは翌年は葉を出すだけか、花をつけても弱々しい。ところがこのチビチューリップは翌年も花を付けた。そして今年も、花を付けている。しかも、通路の横のザラザラしたところで、手入れもしていない。

普通チューリップは花の下が長い。高校の時にはチューリップというあだ名の教師がいたぐらいだ。ところが、この赤いチューリップは花の下がやけに短い。こういうの、ちょっと目にしない。かくして、今年は妙に貴重で可愛く見えてきた。

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今日は満月

2019/03/21 22:08
八重原台地に登る車中から見る月は大きかった。

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調べたら今日は満月。1ヶ月前に日光湯元の露天風呂から見た月はスーパームーンだった。湯舟に浸かって雲に隠れたり姿を現わす月の姿をしばらく見ていた。あれから1ヶ月経っても月の姿は大きい。

昔は電気の灯りなんてなかったから、月が有るか無いかは大きな違いだったろう。以前ネパールを歩いていた時に次の村に着く前に真っ暗になった。月の無い日だった。でもそのあと行ったランタン谷では、月の明るい時にあたり、6000mの山々がハッキリと見えて、神々しかった。あの時初めて新月と満月の違いを知った。

かつて日本の暦は太陰太陽暦で月の満ち欠けに対応していた。考えて見れば月の満ち欠けは日常生活に大きく影響していたのだ。花鳥風月と言うぐらいだから、月は鑑賞の対象でもあったのだ。

数年前に白山に登った時に、早朝歩き出したら、間も無く下っくる地元の老人に会った。今朝早く山頂を出たのですかと聞いたら、月が明るいので家を夜出て登り、今下りだと言う。私は日の落ちた山は恐ろしいとばかり思っていたのに、この方は月明かりの山歩きを楽しんでいらっしゃるのだ。私の感性は随分退化していると感じた。3月21日。
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桑田佳介 「ひとり紅白歌合戦」

2019/03/20 23:14
4ヶ月ぶりの東御。今までこんなに長く来ないことはなかった。長い冬の夜、ハナが付いてこないこちらで一人で過ごす気がしなかった。でもいよいよ春だ。友人が来てくれて、今日は一緒に夫神岳に登った。夜、チューナーを使って、iPhonesにテレビが繋がるよう設定してみた。
繋げると、まさにNHKで桑田佳祐の「ひとり紅白歌合戦」をやっているところだった。「Act Against AIDS 」の一環でこの10年で3回公演し、170曲をカバーしたという。彼のイメージはロックというかJポップと言うのか紅白や歌謡曲からは距離を置いているイメージがあった。彼自身もかつては歌謡曲に興味が無かったようだ。それが、大衆音楽の偉大な歴史に気づき、「ひとり紅白」て歌いつぐ気になった。歌ってみると、それらの歌のもつものが理解でき、桑田佳祐にとっても新境地が拓けたという。

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北島三郎、美空ひばり、前川清、いしだあゆみ、南こうせつ、イルカ、沢田研二、井上陽水、ユーミン、中島みゆき、寺尾聡、山口百恵、ちあきなおみ、グループサウンズなど次々に桑田佳祐流に歌う映像とともに、番組では歌手や歌への想いを語っていく。これら私も納得の歌手ばかりでなく、和田アキ子だのクレージーキャッツ、ドリフターズなども高く評価していて、私もそんな気になってくる。

お陰で私もすっかり演歌・歌謡曲を再評価する気分になった。そしてお休みを頂いている歌の先生のところに行って再開しようかと思った。でもその前に、桑田佳祐みたいに、自分流に歌いこむ姿勢を作りたい。



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新倉山浅間神社

2019/03/16 15:54
富士山麓旅行の最初は、新倉山浅間神社。最近こちらの忠霊塔であるところの五重塔、咲き誇る桜、そして雪をいただく富士山の写真をよく見るようになった。何しろミシェラン のグリーンガイドジャパンの表紙にも採用されている。

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インスタ映え効果のせいか、外国人ばかりか日本人も増えたようで、駐車場に至る狭い道ではすれ違う車に気を使う。麓の新倉山浅間神社にお参りしてから、整備された急な階段を登る。斜面一帯にさくらが植林されている。

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五重塔が忠霊塔とは理解に苦しむものの、神仏分離の影響を受けた結果と推定される。それにしても寺院の五重塔ではないというのはなにがしか虚ろだ。

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忠霊塔の後ろの段の上が写真スペース。



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大崎の芳水小学校

2019/03/09 22:27
目黒雅叙園から目黒川沿いに五反田まで歩く。

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目黒川沿いは桜の木が続いていて、開花はあと3週間ぐらい後か。国道1号に出て、さらに大崎駅の方向に向かう。大崎は私が幼稚園から小学校3年生までの4年間を過ごした所だ。途中、大崎警察署がある。通りかかると囚人の護送車らしい周りを網で囲った車をよく見かけた。それから大正大学。学生たちがやっていた日曜学校みたいのに時々通った。五反田にマーケットがあって、買い物かごを下げて買い物に行く母に飼い犬みたいに毎日ついて行ったものだ。あの頃の目黒川はとっても汚かった。

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大崎陸橋の下の社宅に住んでいた。そのころには、陸橋から降りて来る階段があって、道を挟んだ建物の片隅に住んでいた。

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この建物に企業の名前が残っていた。あのころは石炭を扱っていて、こちらの会社の景気が良くて、父の勤務する会社を子会社にしていた。今は建物だけのようだけれど、広い敷地があって、石炭置き場があった。

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大崎陸橋の上に立ってみる。周辺に高層の建物が並んでいる。

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昔は、よく橋の上に立って貨物列車が何台の貨車を連ねているか数えたものだ。多いので40台ぐらいだった。蒸気機関車が黒煙を上げてやってくると、その煙の中に入って喜んでいた。

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社宅のそばに小さなパン屋があった。そこのたっちゃんは私と同学年で、親同士が仲良くなったので一緒に幼稚園に通うことになった。当時は子供だけで幼稚園に通ったのである。でもたっちゃんは、ものすごく動きがゆっくりで迎えに行くといつも待たされた。この後、いつも遊んでいた方向に歩いていく。この辺りは登りになっていて、右手にお墓があり、まわりが原っぱで良く遊んだものだ。今は見事に整備されている。

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寄木神社の階段。

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寄木神社の境内でもよく遊んだ。今はとても綺麗な神社になっているけれど、かつては古ぼけた神社で、境内もコンクリートで固められてはいなかった。

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思えば、この半世紀でテレビはボケた白黒画面から、クリアーなカラー画面になった。そんな風に都会の風景も一変した。原っぱだの水たまりだの、管理が届いていないものがなくなってしまった。そして外で遊ぶ子供の姿が消えてしまった。

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寄木神社を出て、芳水小学校の裏をかすめて、大崎幼稚園に行く。どこも道路が狭いし、極めて狭い範囲にすべてがある。子供のころは道路も広く見えていたし、もっと広い世界で行動しているつもりだった。

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深谷のはずれから上京して、入ったのが大崎幼稚園。私の父も母も、どちらも50歳の恥かきっ子として生まれていて、さらに私は末っ子だから、いとこはすべて年上。一番上のいとこは父と同じ年。その全て年上のいとこの誰も幼稚園に行っていないから、私がいとこの中で唯一幼稚園に行ったことになる。私の幼稚園入園はなかなか苦労の多いものだった。田舎から出てきて、突然幼稚園に入ったのだから、都会っ子のスピードにはついていけなかった。それに無菌のところから雑菌の繁殖する都会に放り出されたのだから、次々に伝染病におかされた。

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3年間通った芳水小学校は改築中だった。近くに明電舎があり、その社長夫妻が小学校を作って寄付した、社長の名前を取って芳水小学校と命名されましたと、何度も聞かされていた。最近創立100周年を迎えたらしい。

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工事中なので横に臨時の入り口がある。よく見ると、関係者以外は入れないように門扉があり閉まっている。今や小学校は近所の人が散歩しながら敷地に入るなんて時代じゃないのだ。芳水小学校は外部のものを全く寄せ付けず、昔を懐かしむなど思いもよらない雰囲気。家に残る入学式の記念写真に写っていた桜の木も、外からはうかがえない。

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でも小学校の横にある品川区立大崎図書館の入り口にある少女像が目に入ってきた。

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これは校舎の後ろの崖の下にあったブロンズ像ではないか。小鳥を抱く少女には見覚えがある。図書館に入って像のことを聞くと、芳水小学校の改築にあたって、臨時にここにあるのだという。この日、唯一会えた昔のもの。胸が熱くなった。昔のものに会えるとどうしてこんなに嬉しいんだろう。

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少女像の下にはこんなプレートがある。

 4年生の時に浦和に引っ越して今も住んでいる。そうすると大崎・五反田はほとんど通らないし、行かない。だから大崎に行ったのはこの半世紀余りで2回目だ。あの頃、時々繁華街に行くとすると、それは戸越銀座だった。電車で行くとすると渋谷だった。駅前にあったのは東横デパートだったろうか、その入り口にはいつも何人かの白服の傷痍軍人が楽器を演奏して、お金を集めていた。今思えば終戦からそれほど時間がたっていなかったのだ。
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百段雛まつり

2019/03/08 00:07
目黒にあるホテル雅叙園の百段雛まつりを見てきた。百段階段は旧目黒雅叙園にあった、唯一残ってる建物である。

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実際には99の階段があり、途中に趣向を凝らした豪華な部屋が7つある。今回はお雛様というよりも、建物自体に興味があった。何しろ「千と千尋の神隠し」の舞台である。

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部屋そのものを鑑賞するなら、展示がない時の方がいいかもしれない。お雛様が飾ってあると、部屋そのものが隠れてしまうし、照明が暗い。(写真は案内書より)

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今回のお雛様は青森、秋田、山形のもので、北前船の往来がこの地に富と京の文化をもたらしていた。この写真は酒田のもので傘福というつるし雛が見える。圧巻だったのは紅花で栄えた河北町の古今雛。

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お雛様を見てからホテル雅叙園のエントランス部分を歩いてみる。こちらも、豪華な空間。

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噂に聞いていた豪華なトイレを見つけた。

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中に入ると朱塗りの橋。

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天井絵。

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個室の中まで撮るのってどうなんでしょうね。
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奄美大島に行って自衛隊の南西シフトについて考えた

2019/03/06 06:00
 奄美大島の瀬戸内町で元自衛隊の人から、その日近くでミサイル基地の開所式があることや、自衛隊の南西シフトの話しを伺ったので、帰宅してからそのあたりのことを調べてみた。自衛隊や在日米軍の動きはごく大まかにしか理解していなかったけれど、実際に展開しつつあるところに行ってみれば、動きが身近に感じるものだ。これを機に自衛隊の南西シフトについて考えてみたい。というか、理解したことをまとめておきたい。

  大戦中、奄美大島には様々な施設が展開していた。中でも奄美大島と加計呂麻島の間の大島海峡沿いはリアス式の多くの入り江に恵まれていて艦船の絶好の寄港地であった。瀬戸内町古仁屋の旧陸軍弾薬庫を見たが、連合艦隊の停泊地であった加計呂麻島の薩川湾の防衛のために、海峡沿いには旧日本海軍の砲台が多数設置されていた。また薩川湾の奥には、島尾敏夫が大戦末期に特攻隊長だった基地もあった。

 それらは70年以上前のことである。ところが今、再び奄美大島は自衛隊の南西シフトによってさらに軍事施設が作られつつあるのだ。
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 従来から奄美大島には奄美空港近くに奄美大島分屯基地(航空自衛隊那覇基地の分屯基地・奄美市笠利町にあり通信基地)と、瀬戸内町古仁屋の奄美基地分遣隊(海上自衛隊佐世保地方隊の分遣隊・20人規模)の二つがあった。
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奄美大島分屯基地(航空自衛隊)↑

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奄美基地分遣隊(海上自衛隊)↑

  ここに今年3月陸上自衛隊の基地が二つ開所する。奄美駐屯地は奄美市大熊地区のゴルフ場の一部の35ヘクタールの土地に作られている。警備部隊230人と対地空ミサイル運用部隊60人をふくむ350人規模。
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奄美駐屯地(陸上自衛隊)↑

 もう一つは瀬戸内分屯地で、瀬戸内町節子地区の町有地30ヘクタールの土地に作られている。警備部隊130人、地対空ミサイル部隊60人を含む210人規模。
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瀬戸内分屯地(陸上自衛隊)↑

 奄美大島に2つの陸上自衛隊の基地が出来たのは自衛隊の南西シフト体制の一環である。(図は産経新聞)

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 陸上自衛隊は、ここにきて奄美大島だけでなく、沖縄本島、宮古島、石垣島、与那国島に新たな展開をしている。また、奄美大島から喜界島が見えたけれど、そちらにも360度全方向から受信可能な通信所がある。

 今年1月9日のNHKでは防衛相が開発会社から馬毛島を160億円で買収契約をしたと報じた。馬毛島(まげしま)は種子島から12キロで、1959年にはトビウオ漁に従事する113世帯528人が住んでいたが、1980年には無人島になっている。くだんの元自衛隊員さんによれば馬毛島は在日米軍の空母艦載機のタッチアンドゴー(FCLP)の島になるという。在日米軍の航空母艦ロナルド・レーガンは横須賀基地を母港としている。その際、艦載機は入港前に厚木飛行場に移動していた。そしてFCLPは硫黄島で行われていた。しかし2018年3月から艦載機は厚木ではなく岩国に移動した。馬毛島は岩国から400キロの好立地である。厚木から硫黄島間の1200キロよりはるかに近い。そして岩国は佐世保の米軍基地にも近いのであり、そちらがもっと活用される可能性がある。今までは佐世保の近くにFCLPをする場所がなかったのに、それが可能になるのだ。とすれば米軍も北ではなくて南西シフトしているのだ。

 2018年3月には佐世保を駐屯地とし、南西諸島の防衛態勢を強化する一環として水陸機動団が発足している。これは上陸作戦を専門としており、日本版海兵隊といえる。現在の隊員数はおよそ2100人で、将来的には3000人規模に増やす予定。海上からの上陸時に使うのは、水陸両用車で、1両の値段はおよそ7億4000万円。陸上自衛隊は合わせて52両を導入する計画。

 さらに考えてみれば、海上自衛隊最大の護衛艦「いずも」全長248mには新たに購入するF35戦闘機を艦載するのであるが、馬毛島で訓練する可能性もある。

 さて、奄美大島は自衛隊基地が増えた。しかも今後拡大できる規模の施設である。これに対して住民はどう思っているのか。もちろん反対する勢力はある。しかし自衛隊を誘致し、歓迎する姿があるのだ。2018年12月4日の南海日日新聞には鎌田愛人瀬戸内町長が防衛省で岩屋毅防衛相と面会し、艦艇配備と基地拡充を要望しているのである。

  瀬戸内町の加計呂麻島の人口統計を見ると、この40年ほどで人口は6分の1にまで減っている。瀬戸内町長は自衛隊の誘致だけでなく大型クルーズ船の誘致もしている。日本全体が来るべき人口減への対処を迫られているけれど、まして離島にとって、これは大変な問題で、できる限りのことをしたいのが心情だと思う。


 


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田中一村終焉の家

2019/03/05 07:00
名瀬の中心部から車で10分ほどの市街地のヘリ、山にかかるところに田中一村終焉の家がある。

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 こちらも管理している人がいない。

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  家に近づくと、だいぶ傷んできているのがわかる。

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  隙間から中をのぞくとまだ畳がある。

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  庭は一村がいたころの面影を伝えているのだろうか。柑橘類がなっている。 

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 すぐ上にかつては、耕されていたらしい部分がある。

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 一村の絵に登場する植物がいろいろ見られる。これは芭蕉の実か。
 
 後で調べてみたら一村はこの家に引っ越して10日目に夕食の支度をしていて心不全で亡くなっていた。もとは一村が奄美に来て最初に住んだ国立療養所奄美和光園の近くにあったものをここに移築している。庭の木も一村会の人々が植えたという。



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奄美大島西海岸

2019/03/04 07:00
  奄美大島南端の瀬戸内町古仁屋から西海岸を北上して名瀬をめざした。国道はなだらかな東側を通っていて、前の日はそちらを通った。東海岸はリアス式入り江が深く入り、山が急峻で、海岸沿いが急峻で道路がないところは山の中に入り、道路がついて入れば海岸沿いを走るというのを繰り返す。大島全体に新しくてきれいなトンネルが沢山整備されているものの、上り下りは結構ある。

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 大和村の今里という集落に向かって下っていく。山が迫っていて、その先の海岸には幅よりも高さの方があるような丸い島が見えた。地図を見ると立神という名がついている。いかにもニライカナイからやってきた神が降臨しそうな姿。

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 今里の集落まで下りきって、今度は海岸沿いに登って振り返ってみる。

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  さらに海岸沿いを行くと、素晴らしい景色が見えた。右側は陸繋島になっていて、その左側にあるのがヒエン浜。案内板にはサーフィンの絶好のポイントとある。なるほどヒエン浜の部分にだけ白波が見える。陸繋島の向こうに先ほどの立神が見える。

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 このあたり、遠くから眺めるだけでなく、滞在するのも良さそう。

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 この写真は翌日飛行機から撮った空港近くの海岸。奄美大島についた日に、裾礁が発達した海岸で貝殻を拾ったりして、なんてのんびりした島だと思ったけれど、平たんなのは北部だけ。後はほとんどが山がちなのだった。

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旧陸軍弾薬庫跡

2019/03/03 22:30
シュノーケル体験が終わって上陸すると、案内して下さった方のお友達が陸に居た。同行者が上陸準備している間に、この方とお話をする。海上自衛隊を退職して15年ほどたち、対潜哨戒機に乗って厚木にも居たということで、国防関係のお話を伺う。現在、古仁屋の陸上自衛隊の基地に居るのは10数人だけ。でもこちらにミサイル基地が出来、今日は開所の祝典があるので今から行くという。歓迎のために、これを用意して来ましたと、大きな日章旗を見せてくれた。自衛隊は今、北海道方面から南にシフトして来ているという。

島尾敏雄が加計呂麻島の特攻基地に配属されていて特攻の命令が出たのに2日後終戦になって生き残った。そこでしりあった女性と結婚し、後に「死の棘」を書いたのは頭にあった。でも、奄美大島が戦時中の作戦上、どのように展開していたのかは知らなかった。ただこの後行った瀬戸内町の資料館には奄美大島で、各地区の空襲で焼けた家と犠牲者数の地図があった。数はそれほど多くないものの島全体に被害者がいた。つまり島全体に軍の施設があったようだ。特に加計呂麻島と奄美大島の間の大島海峡はリアス式の入り江が多く絶好の拠点となった。

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  古仁屋の町から10分ほど海岸線を北上して旧陸軍弾薬庫跡を探した。海岸沿いの道路から細い道を入り、大島自動車学校の左側の山の際にあった。入り口に案内板があって、中に入れる。

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 最初明かりのスイッチがあるのに気が付かず、真っ暗の中を恐る恐る進んだ。

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 早々に戻ってきたら明かりのスイッチがあるのに気付いた。管理する人がいないのに自由に入れるのは珍しい。

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 とてもしっかりした構造だ。

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 一番奥に弾薬庫の部屋がある。かなり大きいし、しっかりした出来である。規模・構造とも日本で最も優れた施設であったと記されている。松代の大本営や沖縄の地下壕がほとんど部屋のようなものを持たず、通路だけで出来ているのとは大違い。これだけの部屋だったら大量の弾薬を貯蔵出来たろう。ただし住民は一切気づかず、終戦後になって大島海峡に弾薬が放棄されているのを見て、初めて弾薬庫があったことが分かったという。

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 通路を行くともう一つ同じぐらいの大きさの弾薬庫があり、もう一方の出口がある。

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  もう一方の出口から出た。3月1日
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加計呂麻島を望んでシュノーケル

2019/03/02 21:16
奄美大島の一番南の方の瀬戸内町古仁屋に行く。小さい町ながらファミリーマートと農協スーパーがあって便利、そして元からの商店もあるので、加計呂麻島の黒糖だの、黒糖入りよもぎもち、タンカンだの買うことができた。宿には山田洋二監督の色紙が何枚も飾ってあった。聞けば監督は寅さんシリーズの最終回をここで撮って以来毎年のように何人もでやってきて宿泊するのだという。映画の前のテレビシリーズでは確かこの辺りで死んでしまい、死んでもらっては困るというファンの声で生き返り、映画のシリーズになったのであり、死んだのはここであった。


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古仁屋は大島海峡に面していて、向かいは加計呂麻島。海峡の両側はリアス式の海岸だから沢山の入江がある。古仁屋から急な道を登って高知山展望台に行った。曇りがちで徳之島までは見えなかったけれど、加計呂麻島がよくみえる。

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シュノーケル体験に行くために待っていたのはヨット。

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ヨットでもエンジンが付いている。中には小さいけれど炊事場があり、トイレも付いている。案内して下さったのは大阪出身で、奄美大島に来て20年の方。前日まで冬休みを取っていて、5週間アフリカ南部を旅行していたそう。

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この方が、次の日には水中の写真と動画を送って下さった。ダウンロード上手くいかず、これはスクリーンショットしたものだからだいぶ画質がおちている。

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移動して嘉鉄という湾でシュノーケルをした。様々な珊瑚がある。そして魚が沢山いる。今まで奄美大島の珊瑚礁の海のことを知らなかったけれど、ここは世界レベルの素晴らしいところに思える。

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海の中を見るのは素晴らしかったけれど、間も無く私は海酔い状態になり、早々に船に上がる。同行者がもう一度トライしている間にウェットスーツを脱いで、上陸準備。この後ヨットでクルーズしますかのお誘いにも、乗らず。でも、この辺りの珊瑚礁と色鮮やかな沢山の魚を見たので、大満足。3月1日
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大島紬の織りと泥染め体験

2019/03/01 08:09
田中一村記念美術館を出て、奄美大島紬村に染めと織りの体験に行く。

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園内に入ると、まず大島紬の工程を案内してくれる。こちらは染めに使う泥田。日陰ヘゴが印象的。

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染色ではシャリンバイの木を煮出してタンニンを抽出した液を使う。

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シャリンバイの液につけるのを20回繰り返し、泥田につける。こちらは鉄分を含んでいるから、媒染液に浸す効果になる。ここまでの工程を4回繰り返すから、合計80回シャリンバイの液に漬けることになる。こうして独特の黒色を出す。

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次に場所を移動して織りの工房を見学。大島紬紬は縦糸と横糸それぞれ先染めする。従ってまず一度、綿糸を使って織り、染める。次に本織りするわけだから大島紬は二度織りする事になる。

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色々な色を入れた状態。黒以外に藍や、赤も入れるようになったのは近代に入ってから。

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田中一村はこの染色の工程をやっていたそうで、ただし彼の頃には染め液を入れるチューブは無くて、皿を使っていたという。

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泥染め体験を終了して、お昼は鶏飯を食べに行く。

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午後は織りの体験。つきっきりで指導して下さったこの方は伝統工芸士の資格を持っていらっしゃる。織りの体験はこれで4回目。やる度に一から教えていただいて、今回も慣れるのに時間がかかる。

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こちらで良かったのはざっくりと織るのでなくて、細い糸でかっちりと織って行くこと。横糸を何色か自分で選ぶ。いつも通り、紫系とする。絹の光沢は特別。今、生糸はブラジルから来ているという。

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そばの機織り機には織りかけの大島紬がある。少しずつ織っては模様を合わせていくそうで、染めから織りまて、本当に大変な工程である。

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ホテルに戻り、仕上げた作品を見る。泥染めはシャリンバイ液と石灰を入れた液に漬けるのを3回繰り返した。それから泥田に入って浸す。泥田で出来上がった状態はまだピンクに染まったぐらい。でも最後に係の人が濃い色の液で煮出したらすっかり染まった。実のところは最後の工程で染まったのじゃないか。

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織りもしみじみ見る。2月28日


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田中一村

2019/02/28 22:36
奄美大島に行きたかったのは田中一村の存在が大きい。田中一村の絵ばかりでなく、彼の描いた自然も見たかった。

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奄美パークにある田中一村記念美術館は、とてもセンスの良い建物だった。

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高倉をイメージしたものを、いくつか連ねて展示室にしている。

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東京時代、千葉時代、そして50歳から69歳まで過ごした奄美大島の時代。お金を稼ぐ為ではなく、真に自分の描きたいものを目指し、大島紬の染色の仕事をしては絵に打ち込むお金を貯めた。だから絵に集中出来た年数は6年ほどしかなく、この間の作品は30ほどという。そうしてみると、こちらの美術館にこれだけコレクションがあるのは充実している。奄美時代、そして千葉時代に描いた植物の絵が素晴らしい。その詳細な描き方がちょっと伊藤若冲を思い出させる。けれど若冲が派手で、前に出る感じがあるのに対して、田中一村の作品は落ち着いた感じがする。昨年はパリでジャポニズムが特集され、その中に私もパリで見た伊藤若冲展があった。そして今回知ったのは、ジャポニズムの一環で田中一村展もパリで行われていたのだ。この後、田中一村も若冲がそうであったように、急に注目度が上がる気がする。
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奄美大島の貝殻

2019/02/28 07:42
朝起きて、昨日拾った貝殻を見る。
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宝貝。

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裏から見る。

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巻貝など。

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珊瑚。

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レースみたいな繊細な珊瑚。2月28日。今日で2月終わり。
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奄美大島に来ました

2019/02/27 21:23
今年初めての飛行機。このところ寒い思いをし、風邪もひき、花粉症にも襲われつつあるので奄美大島に行くというのは、いい気分。

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空港で本を2冊買う。井沢元彦の「学校では教えてくれない戦国史の授業」と桜井識子の「京都でひっそりスピリチャル」。バニラエアの飛行機でクリームパンとコーヒーのセットをいただきながら、半分寝て、半分本を読み、曇りで視界が開けなかったけれど、あっという間に奄美大島に着いた。

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本日の宿は空港近くのコーラルパームスというリゾートホテル。何しろLCCで飛んできたのだから、1日目はホテルにたどり着いて終わりの時間。

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前に続くビーチを歩いてみる。人がいない広い海岸。海に向かって珊瑚礁が広がっている。ところどころ岩礁があり、干潮なのでそばにあるのは渡れる。

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6時でもまだ明るい。ここは埼玉より西である。

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珊瑚礁のかけらだの、貝殻が落ちている。そうなると、どうしても拾わずにいられない。場所によって落ちている貝殻の種類が違う。私の目当ては宝貝。

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ホテルの敷地に戻ると、山羊がいた。

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小型だけれどツノがあるからもう大人か。

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蘇鉄だろうか、まだ小さい木に取り付いて食べている。

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手前は子ヤギ。

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檻の中にも一匹。ヒゲが生えている。

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隣には鶏舎があって、平飼いの鶏が今しも小屋に入りそう。夜はちゃんと中で寝るのか。

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これはセンダンソウだろうか。奄美大島ではもう野の花が咲いている。

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ホテルの部屋に戻って、貝殻をすすいで干した。2月22日

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スーパームーンの翌日は千手が浜へ

2019/02/23 21:59
日光スノーシューの宿は毎回湯の湖畔にある国民宿舎。外で冷えた体には温泉泊というのは本当にいい。到着して一度、寝る前にもう一度、そして朝も入る。3回入った中で一番良かったのは寝る前で、露天風呂に入りながらスーパームーンを鑑賞した。黒雲と白雲が物凄い速さで右から左に流れていく。それに連れて大きくて明るい月がはっきり見えたり、雲に全く隠れたり、次第に姿を現しつつ神秘な光を放つ。このスーパームーン鑑賞は今回の山行のクライマックス。次の日まで余韻が残った。

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翌日は赤沼から歩き出す。

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雪は少ない。

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全体に緩やかなコースの中で、高山峠からの下りに緊張するところがあった。この辺りやっぱり経験のあるリーダーがいないと難しい気がした。今回は7人のメンバーで、中に奥日光のガイドブックを作ったお2人がいて心強い。

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下りきって千手が浜に出た。

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中禅寺湖の向こうに男体山が見える。

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小田代ヶ原を経て赤沼に戻る。本日のコースタイム6時間。2月20日

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スノーシューで山王峠へ

2019/02/19 19:38
2月の奥日光スノーシューハイキング。

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山王峠まで行く。

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動物の足跡各種。

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アストリアホテル前まで戻ると、樹上に何者かがいる。

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猿だった。
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伏見稲荷 狐火

2019/02/10 15:37
10年ぶりの伏見稲荷。
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 前回行ったときは脊柱管狭窄症による間欠性跛行状態。腰を痛めていて、少し歩いただけで足腰が痛くなり歩くのがやっとだった。でも自転車には乗れたからクロスバイクを持参して京都に行ったのだ。その時に京都駅近くから自転車で伏見稲荷まで行ったものの、千本稲荷を通過して稲荷山の頂上に行くなどとても無理だった。それで今回はその雪辱を晴らすつもりで行った。
  
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 当時はもう普通には歩けなくなるかと思い、道行く人が普通に歩いているのを見ては歩けるのってすごいことだと感心していた。でもまあ私も2年ほどつらい時期を過ごした後、赤坂の前田病院で渡辺航太先生による内視鏡手術でよみがえった。今こうして歩けているのをとてもありがたく思っているわけだ。

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 前回来た時には拝殿前の狐の姿が印象的だった。何しろ入り口までしか行っていないのだから、そのあたりで目につくものといえば立派な狐の姿だった。

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 その時疑問に思ったのは、しっぽがなぜこんな形をしているのか。さすがお稲荷さんの総本山の狐は違うもんだと考えた。神職さんに聞いてみたがはっきりした返事がもらえなかった。それが今回は疑問が解けた。この宝珠みたいな形をしているのは狐火に違いない。安藤広重の浮世絵には王子稲荷に大みそかに狐火を焚いて関東の狐が榎の木の下に集まっている絵があったではないか。

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 今回よく見ると、この狐は口にも金色のものをくわえている。稲穂である。

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  今回は念願の千本鳥居を行く。最初は朝の鉄道駅通路のような混雑。中国から来た人が9割で、後の1割がそれ以外の外国人と日本人という感じ。でも間もなく人がまばらになった。

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 鳥居は登るにつれ下よりは疎になるものの山の頂上まで続いていて、とても千本という数ではない。

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 途中いろいろな神様が祀ってある。この石は稲荷さんがこちらに降り立った依代じゃないかと思い、後で確かめてみると、「おもかる石」という願い事をして持ち上げて軽ければ願い事がかなうという石の方が人気があるらしい。

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  登るにつれ、様々な社が現れる。
 
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 いやあ、本当、こちらには神様がたくさんいらして、そしてものすごい信仰を集めています。しょっちゅう通っている人には、それぞれの神様のことがわかるレベルなのだろうが、私の場合とりあえず稲荷山の頂上まで登り、たくさんの鳥居を見たので満足。

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 稲荷山を越えて、京都周遊ハイキングコースと合流。今熊野方面を目指す。

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 山を下りて里に出ると、この看板が何枚も目に付く。京都で民泊やるのもいいかと考えていた時期があったけれど、今やこういうことか。

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 泉涌寺の塔頭、悲田院に出た。
 
1月31日
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比叡山

2019/02/09 07:00
日吉大社の次に比叡山に向かう。出発は11時になってしまった。奥宮は後にして、先に比叡山に登っておけばよかった。数日前に雪が降っているし、私には初めての道なのだから、すこし緊張する。でもどうしたって行きたいところから先に行きたい。
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日吉大社の左横から登山道が始まる。

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登るにつれて、だんだん雪が出てくる。でもアイゼンをつけるような所はほとんど無かった。延暦寺まで1時間ちょっとの登り。

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中学校の修学旅行以来の根本中堂の建物。今は修理中ですっかり上屋で覆われている。それにしても入館料を払うところが無くて不思議な感じ。あとで境内の地図を見たら足で登って来ると、入山受付の内側に入ってしまうことがわかった。考えてみれば坂本ロープウェイも使わないわけだから、この日は随分お得に歩いたことになる。でも御朱印は頂きましたけど。

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内部の不滅の灯りの前で参拝してから、足場から根本中堂の屋根を見る。

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講堂。

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阿弥陀堂。

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このあと大比叡山の山頂848mを目指す。山頂から修学院離宮を目指そうかと思ったけれど、そちらにはほとんど足跡が無く、雪が深いので行きの道を取ることにした。頂上そのものは眺望も開けない。でも途中眺望が良いところがある。

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坂本に下ったのが3時半。滋賀院門跡に向かう。

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こちらは天海が最初に建設し、その後は延暦寺の座主が代々住まれたところ。江戸時代には天台座主は日光の輪王寺、江戸の寛永寺の座主も兼ねることが多かったのだから、当時の仏教界の最高峰がここにお住まいになっていたわけだ。

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唐破風の門がある。

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現在の建物は明治のもの。庭は小堀遠州作。

1月30日
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日吉大社 奥宮のある八王子山

2019/02/08 07:00
  坂本から比叡山頂を目指す。前回、日吉大社に行ったのはいつだろう。あの頃よりもこの神社に対する思い入れがある。日吉大社は平安京の鬼門を守る延暦寺とともにあった。けれども廃仏毀釈では、日吉大社こそいち早く仏教を排したという。

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  湖西線で比叡山坂本駅に降り立ったのが9時。日吉大社に向かってなだらかな坂道を行く。穴太衆による石垣が美しい。このあたりは日吉大社に行く道であるけれど、比叡山延暦寺に行く道であって、そちらの門前町と言うべきだろう。

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 石には苔が生えている。

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  日枝大社に入り山王鳥居をくぐる。

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  まず大山咋神をまつる東本宮へ。次に大己貴神をまつる西本宮に参拝する。

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 それから奥宮のある八王子山 381mをめざした。

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 まずは西本宮の横にある牛尾宮遙拝所と三宮遙拝所の間の広くて段差の大きな階段を登る。じきに山道になる。
ここを4月の山王祭では両方の神輿を担いでおりるのだ。頂上近くなると琵琶湖の景色が見えてくる。

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  最後の階段を登る。 

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  その先に金大巌(こがねのおおいわ)が見えてきた。東本宮のご祭神である大山咋神が降り立った磐座なのだ。

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 右の建物が大山咋神をまつる牛尾宮。左の建物が三宮宮。

神社に奥宮とか磐座が有ると、そちらにも出来るだけ行ってみたい。どんなところに行ったか思い出してみる。三輪山、松尾大社、出雲の蘇我神社などには磐座があり、男体山や奥穂高岳は奥宮・嶺宮だったわけだ。今度からこの辺りの関係に目を向けよう。

1月30日
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適塾

2019/02/07 21:44
  1月恒例の京都の2泊目は今回は大阪に泊まることになった。

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 数年前に行ったときにはじめてキタとかミナミというのがわかり、あわせて大坂城、中之島、造幣局、四天王寺を回ったので大阪の概要がやっとわかるようになった。今回は船場とか北浜という大坂の商業の中心地を歩くことになった。朝、ホテルに荷物を預けて天神橋商店街を歩く。どこまでも続くアーケードの商店街。安い。アーケード街で昼食にうどんを食べた。そして夜はまたアーケード街に戻り、最初の店でまず串揚げ4本と生ビールセットで500円、串揚げ4本と焼酎のお湯割500円。次の店でお好み焼きと生ビールのセットで1000円。いやあ大阪って住みやすそう。

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 天神橋商店街から、日本三大祭である天神祭りで有名な大阪天満宮に行く。

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 思ったほど境内は広くない。この後、中之島に行き、中央公会堂の中を見学する。


 福沢諭吉や大村益次郎の学んだ適塾はこの日の見学のメイン。
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 大阪はさぞかし空襲でやられたと思っていたのに、ちゃんと適塾の建物が残っている。中之島の建物も残っているから、丸の内などと同様に、このあたり空襲がなかったのかもしれない。

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 中は資料館になっている。結構広い。緒方洪庵は医者であると同時に蘭学を教えた。そして経済的にも力があったのか。

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  適塾の両側は空き地になっているから、建物の規模がわかる。本居宣長の住まいよりはるかに大きい。

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 緒方洪庵の像が立っている。

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 適塾のあったあたりは北が土佐堀川に面するので、商売の盛んな船場の中でも北浜と呼ばれている。適塾のすぐそばには大阪取引所の建物がある。今では丸の内のビルのように昔の面影を残しながらも高層ビルになっている。入り口には大阪経済の恩人であるディーン様、いや五代友厚の巨大な像が立っている。

1月29日

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渉成園  智積院  養源院

2019/02/06 22:54
京都駅に降り立って智積院を目指し、途中に渉成園に寄った。

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  渉成園は東本願寺の歴代の隠居所で、周囲に枳殻(からたち)の生け垣をめぐらしたことから枳殻邸(きこくてい)ともいう。ただし1864年の蛤御門の変により炎上し現在の建物はそれ以後建てられた。今や周りを建築物に取り囲まれているものの、池泉回遊式の庭園に、風流な建物が点在する。印月池の向こうに建つ漱枕居。

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  北大島に建つ縮遠亭。建物は小ぶりだけれど、繊細なつくり。 

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  一番印象的なのは傍花閣(ほうかかく)。上に4畳半の部屋があるそうで、そこに至る階段が両側にある。

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 階段の入り口。こういうのが両側にある。

  次にかねてから行きたかった智積院に行く。いつも東山方面を目指して京都駅からバスに乗ると三十三間堂を越えて突き当たったところを左に曲がる。その突き当たったところが智積院である。
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 智積院といったら、長谷川等伯の襖絵である。等伯の息子の長谷川久蔵が25歳で描いた「桜図」と、翌年その息子が亡くなって傷心のうちに等伯が描いた「楓図」どちらも迫力がある。

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 等伯の障壁画は今は収蔵庫で見る形になっている。実際の部屋には模写した襖絵がある。とても輝いている。

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  襖絵がいろいろあるうち、後藤順一筆「百雀図」1995年がかわいらしい絵だった。あとは非公開文化財公開ということで、堂本印象のモダンな襖絵を目にすることが出来た。

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  庭にはハートが。

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  最後に「楓図」の御朱印帳を手に入れる。

 夕方まで少し時間があったので智積院のそば、三十三間堂の向かいにある養源院に寄った。
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  俵屋宗達の象の絵がメインのつもりで行き、それも一見の価値があったのだけれど、こちらの歴史が深い。
  養源院はもともと淀君が父の浅井長政の供養のために秀吉に願って創建した。その後火災に会い、今度は淀君の妹で秀忠の妻だった江が再興した。その際、伏見城の遺構の一部を移築した。伏見城は関ヶ原の時には家康の城であったが、鳥居元忠らは石田三成軍に攻められ落城した。この時に最後に自刃した鳥居元忠をはじめとする遺体が放置され血が染みついた床板が養源院の天井に貼ってある。「血天井」である。ボランティアのガイドさんがこのあたり頭とか足とか説明してくださる。はっきりと手とわかるのもある。

1月28日
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京都でおでん

2019/01/30 08:31
今回で4年目の1月京都。渉成園のお庭を拝見して、智積院で長谷川等伯の襖絵、養源院で俵屋宗達の象の絵を見る。

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夜は例年どうりたこ松のおでん。

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今回が初めての同行者の一人が、「棚が斜めになっていませんか」と無粋な質問。お母さん、「そうなんですよ。あれが真っ直ぐに見えたら酔うてはるさかい、もう呑まんようしてもろうたります。」あの棚は雑誌にも載っていて、こちらの売りなのである。

まずお目当ての聖護院大根、たこを食べる。きんちゃく、油揚げ、玉子、だし巻き玉子、ちりめん大根、など何を食べたか思い出せないほど食べ、三岳のお湯割りでいい心持ち。宿に戻る前にもう一軒寄って、この日は終わり。1月28日
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