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マルハナバチのつぶやき

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信州の週末田舎暮らし、植物、昆虫、旅行、山歩き、自転車旅の記録です。そして歴史歩きも。
Bumblebees' Garden in English
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アカシアの豆がはじける

2017/03/20 19:58
先日、西の谷に行った時に、アカシアの豆が沢山ぶら下がっているのを見た。

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鞘どうしを叩いてみると、硬い。そして今回2週間ぶりに来てみると玄関前に黒いものが散らばっている。近づいて見ると、アカシアの鞘がはじけて豆が散ったのだ。

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散っていた豆と鞘を集めてみる。鞘がうねっている。

おとといの夕方、西の谷に散歩して、アカシアの森のあたりを通りかかると、パチッパチッとはじける音がした。アカシアの鞘がはじけているのだとピンと来た。

さて、2日後の今朝同じ所を散歩しても音が聞こえない。鞘はある条件、例えば成熟度、気温、湿度などが一定の条件になった時に一斉にはじけるのだろう。

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アカシアは帰化植物ながらあちこちに見られる。この豆のはじけ方をみると、旺盛な繁殖力もうなづける。多分、植生の観点からみると、この繁栄ぶりは好ましくないだろう。でも私はアカシア白い花が好き。その甘い香りも好きだし、天ぷらで楽しむ。アカシアの蜂蜜はクセがなくていい。そして子供の頃は西田佐知子の「アカシアの雨にうたれて」が好きだったけれど、アカシアの木がわかるようになったのはこの10年。
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ジオグラフィカで歩く「西の谷」散歩

2017/03/20 19:14
最近歩くようになった山荘の西側の谷に行く散歩コースの名前を「西の谷」コースと命名しよう。カシオのプロトレックで、標高差を測ってみると、およそ100メートル。谷の向こう側を登って藤原田の台地に登れば、累計高度はもっとある。
この辺り、地形が変化に富んでいて、土地利用も様々。iPhoneのアプリで、最近使い出したジオグラフィカを見ながら歩くと、地図の中の自分の位置が正確に表示されて、勉強になる。2万5千分の1の地形図がいかに正確であるかもわかる。

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ここまで正確に読み込む感覚は、実際の地図を持って歩いた時には得られなかった。ガーミンのGPSは要らなくなりそう。ガーミンは位置が極めて正確に出るから、今まで何度も助けられた。乾電池使用だから、バッテリー切れの心配もなかった。ただし画面が小さいから事前にパソコンからルートを入れておかないと、山の中でどの位置にいるのかつかみづらい。だから一手間かかる。
気になるのはジオグラフィカの精度である。ガーミンに比べてどうのとは言えないけれど、随分といい気がする。
もう1つある山歩きGPSアプリ、ヤマップとの比較でいうと、ジオグラフィカの方が地図がいい。ヤマップのように事前に地図をダウンロードしなくてもいい。でもヤマップのいいところはタイム入りのコースがのっていることで、スマホを見ただけで計画を立てるのにいい。
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「騎士団長殺し」を読む

2017/03/04 23:41
昨夜から「騎士団長殺し」を読みだして今日は第2夜。今、一巻の真ん中あたり。話が思わぬ方向に展開していって、まさにページターナーである。けれども山荘で夜一人で読むのは怖くなってきた。なにしろ一人暮らしの山中の家で起こる不思議なことが続くのだ。最近怖がりになったんだろうか。映画「沈黙」も拷問シーンが億劫で、見たいのに、見に行けない。山でも、昔は何でもなかった岩場が怖くなった。歩道橋から下を見たって怖いのである。
続きを読みたいけれど、今日のところはここまでにしよう。明日は友人がやって来る。今回は本当によくきてくれてありがとうという感じ。
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湯の丸山 スノーシュー

2017/03/04 19:09
湯の丸スキー場のある地蔵峠の駐車場はいくつもあるのに、どれもいっぱいでびっくりした。平日は斜面にスキーヤーが一人か二人しか見えないのに、土曜ともなるとこんなに来るのかとおもった。スキー場を観察すると、ポールが立ててある。大会があるのだ。仕方なく路上駐車した。

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出発は11時。ロッジ花紋の前でスノーシューをはく。臼窪湿原までは林道を行き、手前から林の中を登りだす。多少踏み跡があるけれど、雪の上を好きなように登ってみる。ちょうどリフトの頂上に出た。

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リフトを背にしてなだらかに下る。湯の丸山がみえる。

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小動物の足跡があちこちに。

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この辺り、広々としている。

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浅間山が噴煙をあげている。

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湯の丸山の山頂を踏んで、登りの時よりも手前の樹林の中を通って臼窪湿原に下る。湿原は雪原になっている。新雪を踏んで、好きなようにルートをとって気持ちよく歩く。地蔵峠に戻ったのが2時だから3時間のハイクだった。標高差は約300メートル。登山アプリケーションのジオグラフィカを使ってみた。標高、時刻などを音声で知らせてくれる。ガーミンよりも使い勝手が簡単である。長時間仕様で、より精度を求めるならガーミンだろうけれど、こちらはなにしろスマートフォンなのだから便利。
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村上春樹を読みます

2017/03/03 18:10
今日は東御に来るのに珍しく早く家を出たから、小諸の布引いちご園で思い切りイチゴを食べてから、あぐりの湯によっていくことにした。けれどもいちご園は閉鎖中。お客さんの数に収穫が追いつかないとみえる。今年2回目の空振りになった。気を取り直してあぐりの湯に行くと、章姫が2パック残っていたので、素早く買った。お風呂を出てからなんて言っているとなくなりそうな気がしたのだ。温泉では雛祭りですからとみすず飴のサービス。雛祭りなんてすっかり忘れていた。お雛様を飾らなくなって随分経つ。
温泉から出て、布引観音を通ったので、参詣した。思えば今年は百名山を終わらせて、次のところを狙うつもりになっているから、トレーニングを日常に組みこむつもり。布引観音だったら湯の丸や北八ヶ岳ほど遠くない。今度から通りかかったらいつも登ることにしよう。いや通り掛からなくてもしょっちゅう通って一度に5回ぐらい登るのはいい考えだ。後で標高差を調べておこう。
そんな風に過ごして家に着いてもまだ明るかった。庭の点検をする。雪なし。チューリップに堆肥をかける。日が伸びたせいか、それでもまだ余裕で明るいうちに家の中で落ち着いた。いつもは落ち着くのが夜になることが多いから、明るいうちに炬燵に潜りこむのはうれしい。イチゴとドーナツでお茶をしようと、持って来た本をならべてみた。村上春樹があるではないか。思わず幸せ気分がわいてきた。今日はお風呂にも入ったし、庭の点検をし、運動もし、布団も敷いたし、夕食はあるものを食べる。しなければならないことは何もない。猫がいないのがちょっと寂しいけど、仕方ないか。

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村上春樹の「騎士団長殺し」は2月25日に届いていた。来てすぐにページを開いたけれどやめておいた。彼の本は自らも意図しているようにページターナーである。つまり次はどうなるのかと、期待感でページがめくりたくなる。でもここのところ、そんな場合ではなかった。
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白いクリスマスローズ

2017/03/03 16:49
2ヶ月ぶりの東御。庭の様子はちょっと見には変わらないけど、よく見るとチューリップの葉が少し出ているし、梅の蕾も膨らんできた。蕗の塔はまだ出てないけれどお正月に来た時に比べると日差しが明るい。

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クリスマスローズの様子を見たら、白い花だけ咲いている。

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もう少しで開きそうなのがある。後のクリスマスローズは花芽が出たばかり。3月末には咲きそろいそう。
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チーズフォンデュ 湯元から光徳牧場 スノーシュー

2017/03/02 12:14
一週間前の日光の湯元から光徳牧場に抜けるコースを、もう一度歩いた。先週は直前に20センチほど積もった新雪の上を歩いた。その後雪はほとんど降らなかったようで、ウサギだの鹿の足跡があちこちについている。

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今回は用意してくれる参加者がいてチーズフォンデュを囲んだ。フランシスパンの他にもアスパラ、ブロッコリー、カボチャ、ジャガイモなどの煮野菜もある。

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やっぱりワインがあると良いですねなんて言ったら、ちゃんと用意されてあって、温めた白ワインをいただく。そしてコーヒーは自宅で入れて来たのがポットから注がれた。いやあ、私も今度はこんな心遣いしなくちゃと刺激を受けた。ありがとうございます。

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昼食の後はほとんど下り。とはいえ結構ワインを飲んでいるから、ひどく息が切れる。

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大きな熊の爪痕。上の方までいくつもある。

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鹿に食べられた幹。まだ生々しい。
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カボチャと林檎

2017/02/24 13:39
春の兆しが見えてくると、昨年の秋に取り入れたり買っておいた果物や野菜を使い切らなければと、気がせいてくる。サツマイモ、ジャガイモ、ヤーコン、里芋、ネギ、ミカン、キューイ、カボチャ、林檎。そういうのが台所ばかりか玄関、廊下などにころがっている。それぞれ収穫の時期には、あれこれに使いかたを描いて、ありがたく手に入れた。ところが2人しか食べる人間が居ない上に、食材を小まめに料理するわけではないから、使い切れずに残っていて焦りだす。大家族で、作っても作っても喜んで食べる人間がいるのも時に羨ましい。

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今日は毎朝のように人参と一緒にスムージーにして来ても、まだ残っていて黒いシミまで出て来た林檎の皮をむいた。蜂蜜と甜菜糖で煮てプリザーブにするつもり。カボチャは皮の白いのが健在なので半分は煮付け、半分は圧力鍋で蒸してカボチャスープにするつもり。10センチも無いような小さなカボチャは上田の直売所でネットに10個以上入ったのを買って来た。京都のお惣菜屋さんで見たような、半分に切った姿のカボチャの漬物にするつもり。
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ハナは19歳

2017/02/23 20:48
ハナは今日で19歳になった。

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昔に比べると随分と動かなくなった。でも元気。

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こんなに長く一緒に暮らすなんて、もらって来た時には想像していなかった。若い頃は狐みたいな顔つきだったけれど、今ではまん丸になっている。
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湯元から光徳牧場 スノーシュー

2017/02/22 18:10
昨日は雪が舞い、風が吹き、寒い中をとにかく歩いた。日光湯元の休暇村館に入ると、そこは暖かくて別世界。温泉に浸かるのがこんなにいいものかと思った。翌日もあんな中を歩くのかと寝たけれど、今日はいい天気。

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冬は閉鎖の湯元から金精峠に入るところから山に入る。朝のうちは木の上に雪が積もっている。空は青空。道も歩きやすい。

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昨年、切込湖に行った時に超えた小峠への道を左に分け、GPSで確認しながら森の中に入る。この辺り、雪のある時でないと取れないルートだろう。登りつめたら男体山が前方に見えてきた。

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気持ちよく開けたところで昼食。今回は8人のグループ。この後は雪の中を各自新雪を踏んで自由に下る。

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鹿の通った跡の溝がついている。

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下りきって光徳牧場のあたり、広々として気持ちいい。
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奥日光 スノーシュー

2017/02/21 21:08
日光の天気はいい予報が出ていたのに今市を過ぎた頃から雪がちらつきだした。いろは坂にかかる頃は本降りで、道路を注意するばかりでなく、すぐに曇るフロントガラスを通して前方をやっとの思いで注視する。

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竜頭ノ滝から歩き始めて、中禅寺湖にそって歩き栃窪のあたり。

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熊窪からは中禅寺湖を離れて、高山の鞍部の峠まで登り。小田代ヶ原を横切って赤沼に出た。

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平成の浪曲時代がやってきた 玉川奈々福

2017/02/16 20:32
雑誌「東京人」2月号が浪曲を特集しているのを見て、私は浪曲に興味を持っていたことを思い出した。

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子供の頃の浪曲の思い出は父に連れて行かれた浪曲天狗道場。あの頃はラジオで浪曲がながれていた。その後、浪曲との繋がりはないけれど、次に登場したのが島津亜矢の「俵星玄蕃」。三波春夫の浪曲歌謡を堂々と歌っている姿を見て、私も歌えるようになりたいと思った。今のところ島津亜矢の語り入り「旅笠道中」なんてのを練習したけれど、浪曲歌謡までいってない。それがこの雑誌を見て、そうだ浪曲を聞きに行こうと思った。

浅草の木馬亭では毎月1日から7日まで浪曲をやっている。12時15分に始まって4時まで7人の浪曲と1人の講談を聞く。この日は節分で休憩時間には豆まきがあり、ずいぶんと拾ってしまった。

飛び抜けてよかったのは「仙台の鬼夫婦」をやった玉川奈々福。追っかけになるの、いいかなと思う。若手では港家小ゆきがメリハリがあった。

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クリスマスローズが咲いた

2017/02/14 17:12
今日は2月14日のバレンタインデー。お教室ではアソートタイプのチョコレートの箱を持って男性だけでなく女性にも配る姿が見られた。

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道路との境にあるクリスマスローズが花をつけた。狭いところで、しかも蛇の髭に圧迫されながらも毎年花をつける強靭さにいつも感心している。しかも今年はいくつも花を付けているのだ。しかも花の時期が長い。
バレンタインデー、それは我が家のクリスマスローズが咲く時として歳時記に入れよう。
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豊臣秀次ゆかりの瑞泉寺

2017/02/13 22:15
豊臣秀次は秀吉の後継として関白位まで譲られながら、淀君に秀頼が誕生すると疎まれて高野山で切腹に追い込まれた。

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斬首された首は三条河原にさらされた。

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秀次の子供のほか正室、側室ら女性30余名がその前で処刑された。

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遺体は穴を掘って埋めその上に大きな塚を作り、頂上に秀次の首を納めた石櫃を置いた。

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この塚は岩佐又兵衛作といわれる舟木本の「洛中洛外図屏風」の三条の橋の下に描かれている。

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御朱印船貿易で活躍していた角倉了以は、鴨川に沿って高瀬川を開削したが、その時に秀次を弔う為に、三条河原の処刑が行われた場所に瑞泉寺を建てた。

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瑞泉寺の近くには高瀬川の壱の船入りがあり、角倉了以の邸宅もあった。

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瑞泉寺の秀次の墓。

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墓の基壇には秀次の首を納めた「中空の石櫃」がはめ込まれている。
1月17日
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「信長と天皇」今谷明

2017/02/12 22:56
織田信長は延暦寺を焼き討ちし、一向宗徒を根絶やしにした。将軍として足利義昭を奉じて入京していながら、その座から引きずり下ろし室町幕府を滅亡させた。既存の勢力にも、宗教にも屈しなかった信長が天皇とは果たしてどんな関係であったのか。今谷氏は信長と渡り合った正親町天皇を、後白河上皇にも匹敵する策士としている。

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思うようにならない正親町天皇をうとましくなった信長は、譲位を強要するが、拒絶される。老獪ともいえる天皇はしたたかに信長とやりあっていく。信長は最終的に天皇に三職任官をもちかけさせる。太政大臣か、関白か将軍かである。間も無く信長は本能寺で倒れてしまうからその返事をせずに終わってしまった。しかし信長は将軍宣下をねらい幕府を開設する道を選んでいたと今谷氏はみている。

信長は最終的に将軍職を狙ったというのが本書である。いや、信長がもっと生きていれば更にちがうものをねらったのかもしれない。何れにしても、信長でさえ天皇を思うようには出来なかったわけだ。そうしてみると、信長の一生というのも危うくて、苦労の多いものに見えてくる。

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韮山代官の江川邸

2017/02/12 21:48
韮山代官として反射炉をつくり、江戸湾にお台場を作った江川英龍の江川邸を訪れる。江川家の住居あとをイメージしていたら、代官として役所も兼ねるような立派な建物だった。

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江川家は鎌倉時代から続き、幕府成立以前からこの地に力を持っていた。そして、江戸時代を通して、代々代官を勤めてきた。反射炉を作った江川英龍は、36代目にあたる。

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玄関から門の方を見る。大河ドラマ「天璋院篤姫」のロケで使われたとのこと。

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江川家は韮山役所のほか江戸役所、三島陣屋など預り地を含め最大10万石を統治する幕臣だった。

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ここは高島流砲術を教える韮山塾でもあり、塾生名簿には、幕末に活躍したそうそうたる人達が名を連ねる。中でも吉田松陰や勝海舟に影響を与えた佐久間象山に目がとまる。

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広い土間があり、かまどが見える。このかまどで、江川英龍は日本最初のパンを焼いたらしい。パンといっても、焼けたあとしばらく灰の中に入れて乾燥させ、兵糧とした。

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敷地にパン祖の碑がある。

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蔵二棟。

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敷地はとても広い。
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韮山反射炉

2017/02/10 16:15
2015年に「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として世界文化遺産に登録された。だいぶ前から韮山に反射炉というのがあり、周りに黒線の入った施設の写真は見ていたものの、それがどんな意味を持つものかわからなかった。それがにわかに注目を集め、私ごときも見にいくのだから、世界遺産になるというのは効果ありといえる。

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近づいて行くと、4本の煙突があるのがわかる。2つの反射炉があって、それぞれ2本づつ煙突を立てているわけだ。反射炉はペリー来航後に海防の必要から大砲鋳造の溶鉱炉として作られた。大砲を鋳造するため大量の鉄を溶かして鋳型に流し込まなければならない。それまでの日本にはそんな施設はなかった。蘭書だけをもとに、日本で最初に反射炉を作ることに成功したのは鍋島直正の佐賀藩だった。その佐賀藩と交流し、情報を交換しあっていたのは韮山代官の江川英龍だった。彼の手がけた韮山反射炉は死後間もなくの1857年の11月に完成した。

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左が鋳口で銑鉄をいれる。右が焚口でここから石炭を入れて燃やす。

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反射炉の名前は内部で熱を反射させていることに由来する。

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出湯口のある側。

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ここで製作された大砲は、同じく江川英龍が品川沖に作った砲台であるお台場に設置された。

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江川英龍の自画像 江川邸

2017/02/08 16:38
伊豆韮山の反射炉が、2015年に「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として世界遺産に登録された。そしてにわかに、これを建築した江川英龍が注目されるようになった。韮山の代官であった彼の功績で有名なのは反射炉の他に、品川にお台場を建築したこと、そして日本人として初めてパンを焼いたことがある。その江川英龍は蘭学をものにしていたばかりでなく、書や絵が得意だった。

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彼の自画像は目が大きく、目鼻立ちがはっきりしている。体格もしっかりしていたように見える。以前雑誌に江川家の今の御当主の写真が載っていた。目がぱっちりしていて、似ていらっしゃるのが印象に残った。

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こちらは先ほどの自画像から誰かが起こしたものだろうか。

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こちらも自画像。表情があって、彼の才能が偲ばれる。

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昆虫の絵。蘭学者でもあった彼は、シーボルトなどのオランダの博物学の影響を受けていたのだろうか。

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イタチだろう。
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新井旅館 修善寺温泉

2017/02/08 16:00
伊豆修善寺に泊まるのは今回が初めてだ。出かけるというと、山に登りに行くか、歴史歩きなので温泉にこだわって、宿を楽しみに行くなんてしてないのだ。しかし今回は新手の同行者である。宿には3時に入って、温泉を楽しみましょうと言い、新井旅館を予約してくれた。

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エントランスを入って、太鼓橋を渡り、部屋に案内される。

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橋の下の池には緋鯉が群れている。

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通された部屋は高浜虚子が滞在した部屋。

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夕方1時間ほど新井旅館の説明を受け、館内を案内してもらう。平成10年に15棟が国の有形文化財に登録されたという。池を配して趣の違う建物がいくつも集まっている。ガラスの多くは昔作られた、ゆらぎのあるもので、桟は木でできていて細い。廊下は舟底天井。

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奥にある両側の建物は、池に浮かんだような佇まい。

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池の左側の建物から下を見る。

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玄関の外から見ると、上の方に六角の塔が見える。そちらは手入れが十分にされていないので、登ることが出来ないという。いやあ、確かにこれらの建物を維持していくのは大変だろう。その意味では微力ながら宿泊のご協力を申し上げる必要があるかもしれない。

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夕食の箸付。美しい。

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御椀は蟹進丈の上にこごみ、そして金箔。

新井旅館には日本画家や文学者などが多く宿泊している。中でも安田靱彦画伯は病気療養で五ヶ月滞在し、その後の旅館の建築に影響を与えた。なるほど、それぞれの建物にはこだわりというか、芸術性を感じる。中でも天平風呂には感動した。天井の梁などが見とれる作りの上に浴場からガラス越しに池の中を泳ぐ緋鯉が見える。今回は大浴場2ヶ所、貸切風呂2回、露天風呂に入り、温泉旅館を十分に味わった。
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光琳屋敷 MOA美術館

2017/02/08 13:42
MOA美術館には秀吉の黄金の茶室が復元されている。

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3畳の移動式の茶室で、御所にも運び込まれ、正親町天皇に披露されたという。

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京焼きの祖である野々村仁清の「色絵藤花紋茶壺」。「紅白梅図屏風」と並んで、こちらの美術館が所蔵する3つの国宝のうちの一つ。教科書にも登場するので、つい丁寧に見る。

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俵屋宗達下絵、本阿弥光悦筆の「鹿下絵新古今集和歌巻」。光琳に影響を与えた宗達の鹿は柔らかい筆さばき。

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有田焼のうち、酒井田柿右衛門のもの。MOA美術館は写真が自由に撮れる。写真禁止の日本の施設が多い中で、とても嬉しい。写真がいくら流れようとも、本物とは違うのだから、特に事情がない限り写真オーケーにしてくれたほいがいいと思う。

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敷地内に光琳屋敷が復元されていた。光琳が最晩年の5年を過ごし、「紅白梅図屏風」を描いた屋敷である。敷地が広く、大きな屋敷である。裕福な呉服屋である雁金屋に生まれたものの、身上を減らす生涯のイメージでいたら、素晴らしい屋敷で終えていたとは。何れにしても、光琳屋敷が復元されているのはありがたい。

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美術館のエントランスに戻り、少し下った所に梅園がある。紅白の梅が見頃だった。

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紅白梅図屏風 MOA美術館

2017/02/06 21:01
随分前から、MOA美術館に行って尾形光琳の紅白梅図屏風を目にしたいと思っていた。今回やっと見ることができた。

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左隻はしなだれた白梅。

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右隻は反り返った紅梅。

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両者の間には流れがあって、隔たりをつくっている。

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随分前の確か朝日新聞の日曜版に、この屏風の解釈が載っていた。しなだれた白梅は年老いた光琳。

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反り返る紅梅は光琳が想いを寄せた若い使用人である娘。当然、想いはかなわなかった。この絵を説明するときに、いつも私はその説をとって解説してきた。聞いている人も、そういう解釈が印象に残るらしい。そして私は、年老いた光琳に思いをはせて屏風を見入ってしまう。
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熱海 MOA美術館

2017/02/06 20:34
2月6日、熱海のMOA美術館に行く。まさに今日、11ヶ月ぶりにリニューアルオープンした。

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熱海駅からバスは標高差200メートルほどありそうな急な道をぐいぐい登り、美術館のエントランスを入るとエレベーターが続く。

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これで終わりかと思うと、また次のエレベーターがあって何回も乗り換える。乗り継ぎのフロアーの天井一面に光が広がる。

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上まで行くと、展望が開けてきた。

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眼下に熱海の海が広がる。初島、その奥には大島が見える。

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一葉ゆかりの伊勢屋質店

2017/02/06 20:04
菊坂に面して、一葉が何度も足を運んだ伊勢屋質店がある。

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伊勢屋質店は幕末の1860年に創業し、昭和57年(1982年)に廃業した。そのご跡見学園が取得し、現在は文京区とともに管理にあたっているとのことで、土日だけ公開している。右側に見える見世(店舗兼住宅)と左側の土蔵、その奥の座敷の部分からなっている。土蔵は明治20年に足立の方から移築した。一階から見える天井の梁は実に立派で、柱も太くてしっかりしている。

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裏の庭から座敷の方を見る。

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若くして、一家を支えなければならなかった一葉はどんな気持ちで質屋の門をくぐったのだろう。ここから転居して24歳でなくなった時に、伊勢屋質店の主人は弔問に訪れている。

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菊坂のそばに鎧坂がある。ここを登って春日の方に下った。
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一葉の菊坂の家

2017/02/05 10:10
一葉が通っていた伊勢屋質屋が残っていて、土日だけ公開しているというので、寄ってみた。

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後楽園の方から行って春日の交差点を越えると、坂になる。全部登り切ると東大前にでるのだろう、このあたり台地の縁にあって、地形が入り組んでいる。見上げると桜が咲いている。河津桜だろう。そばに右京山で高崎藩の中屋敷があったとの表示がある。

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坂を登り切ると、古い家がある。

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そばの坂には金田一京介の家の跡の表示がある。彼は石川啄木と盛岡の学校で一緒で、親交があった。

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地図を見ると、このあたりに樋口一葉の菊坂の家があったことになっている。階段を登ったところで、通りかかった男の人に聞いてみた。まさにこの辺りに住む男性によれば、階段を背にした白い建物があるあたりが、一葉の借りていた借家があった所らしい。でも表示は無いという。

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階段の上から一葉の借家のあった方を見る。

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一葉も多分使っていたと言われている井戸がある。
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石清水と松花堂 石清水八幡宮4

2017/01/19 23:45
厄除餅を手にして足取りも軽く裏参道を下る。

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名前の由来になった石清水井。今も水をたたえている。

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社僧であった松花堂昭乗の晩年の住居があったという松花堂跡。

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昭和57、58年度の発掘調査で検出された遺構とある。

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解説版の古図を見るとこの辺りには沢山の坊があったことがわかる。そしてよく見ると、観音堂の文字や寺の塔も見える。松花堂昭乗も社僧であった。つまり、この辺りには仏教関係の施設がたくさんあったのに明治の神仏分離令でそれらを取り去ったように思える。

京の料亭の吉兆のパンフレットには、「松花堂昭乗が絵の具箱や煙草盆に使用していた田の字盆にヒントを得て創業者が料理をおさめました」とある。もともとは農家で種を入れるために使っていた十字の仕切りのある箱を江戸初期の昭乗が好んで使い、昭和の初めになって吉凶が料理を盛るのに使い、そして今は松花堂弁当として一般化した。

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厄除け開運餅 石清水八幡宮3

2017/01/19 23:12
1月19日は厄除大祭の最終日で、厄除けのお餅が配られる。本殿を後にして広場に向かうと火がみえた。焼納神事が行われていた。お餅をいただきたいけれど、長い列が出来ていてちょっとひるむ。聞けば例年より少ないようであるし、配布が始まればどんどん列が進むらしい。何しろ1500個用意してある。並ぶことにする。

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お焚き上げの火は大きな炎をあげていて、どんどん焼通じる神事だろうか。

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神職さんが、火の中にものを投げ入れている。厄除け祈願だろうか、これから火に入れる木札がたくさん置いてある。

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番が近づいてよく見ると神職さんは竹の筒に、配布する棒に付けた厄除け餅を刺して火にかざしている。

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とうとう配布している所にたどり着いた。

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お餅をいただくと、妙に嬉しくなった。ヤッタという感じ。



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表参道から本殿へ 石清水八幡宮2

2017/01/19 22:35
八幡市駅を降りて少し行くと頓宮殿がある。

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高良社もそばにあるから、仁和寺の法師はこの辺りで帰ってしまたのだろう。

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10時からの厄除けの儀式に向かうところらしい。神職の方が並んで本殿の方へ。

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本殿に入る前、石段の前で儀式を行っている。

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神楽殿では厄除けの破魔矢を求めた人のために巫女さんが舞っている。

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本殿の周りを歩いてみた。北東の角は面が取ってある。

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鬼門封じである。御所の北東の猿が辻も面が削ってあったような。そういえば石清水八幡宮そのものが京の裏鬼門封じであった。

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「徒然草」と「夏の陣屏風 」 石清水八幡宮1

2017/01/19 21:56
石清水八幡宮というと「徒然草」に仁和寺の法師の話がある。ここで簡単に引用しようと思ったけれど、元の文章が簡潔で味わい深い名文なのでそのまま載せよう。

仁和寺にある法師、年寄るまで、石C水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩よりまうでけり。極樂寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、「年比(としごろ)思ひつること、果たし侍りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」と言ひける。
すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり。

高校の古文で必ず出てくる文章だろう。私の場合は最後の「先達はあらまほしき事なり」という箴言よりも仁和寺と石清水八幡宮の名がずっと記憶に残った。高校時代から四半世紀過ぎた頃に御室ざくらの咲く仁和寺を訪れた。門跡寺院ということで、雅な雰囲気があり、なるほど鎌倉時代から皆に知られた寺だったのがわかった。

一方の石清水八幡宮は大坂城天守閣で夏の陣屏風を見るまで、どこにあるかの見当もついていなかった。夏の陣屏風には逃げ惑う多くの人が描かれていて、なんとか石清水八幡宮まで逃れれば追っ手が来ないと解説してあった。そこで初めて、石清水八幡宮は大阪から京都に向かって行き、山城の国に入ったところにあるとの見当がついた。何しろ京都の街中から離れているからガイドブックに載ることが少ないのである。

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今回は伊丹空港から京都に行くバスの中から、右手に男山が確認できた。そしてとうとう1月19日、厄除け大祭の最終日に訪れることができた。
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石清水八幡宮のマメヅタ

2017/01/19 21:10
石清水八幡宮の参道脇にはコケだのシダだのが生えている。

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マメヅタもいっぱいある。

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近づいて見ると、栄養葉ばかりでなく胞子葉が出ている。

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下の方から見上げると、胞子嚢がみっちり付いている。マメヅタはこんな寒い時期に胞子をつけるとは!
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モミポンの五条製作所に猫がいた

2017/01/18 00:24
最近は猫にあまり会わない。京都ても猫の姿を見なかったけれど、やっと会えた。

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紅葉おろしのポン酢「モミポン」を製造している五条製作所さん。こちらのレトロな建物中に入っていらっしゃる。

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近くには、昔からの建物が多い。

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この辺りは、かつては五条楽園という花街だったようで、独特の雰囲気が残っている。

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五条製作所さんの入り口を入ると、猫がいた。

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三匹もいた。この猫ちゃんは上の猫より一回り小さい。今時めったに会わない子供の猫である。後ろ姿しか撮れなかった。
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京都八百一

2017/01/17 07:12
今日から京都。ホテルに荷物を預けて、六角堂のそばにある八百一に行く。

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1階は野菜、惣菜、食材を売っている。京野菜やおばんざい風の惣菜が目を引く。九条ネギが一袋100円、聖護院ダイコンが500円、割と安い。

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惣菜で目についたのは10センチもある人参、牛蒡、キノコ、サイコロ状のサツマイモのかき揚げ100円。

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屋上に野菜畑がある。

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昨日、京都には10センチの雪が降った。

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水辺にはクレソンも育っている。

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畑の向こうにあるのはイタリアレストラン。

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二階には「きょうのおかず」というレストランがある。10食限定のランチにした。2種類選択になっていて、この場合は季節野菜の蒸し物にするのが大人の選択に思えたものの、あんかけのハンバーグにする。

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3人でたのんだ冷酒をそれぞれ飲み比べる。富翁の無濾過生原酒が美味しかった。
1月16日
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「参勤交代」 山本博文

2017/01/09 19:49
教科書的には、参勤交代は三代将軍家光の時の武家諸法度で定められ、大名に出費をさせ、その力を削ぐものと理解していた。しかし出費をさせたのは結果論であって、本来は将軍に拝謁するための制度である。この制度の始まりは豊臣秀吉の時代に確立された。秀吉に服属した大名は上洛して拝謁し、領地を認められた。秀吉に対抗した家康は秀吉の妹を嫁として差し向けられ、とうとう上洛した。伊達政宗は遅れて北条攻めに参上し、その北条氏は上洛を拒んだために攻め滅ぼされた。領地を認められた大名は京や伏見に屋敷を構え、妻子を人質としてそこに置いた。
参勤交代は国に1年、江戸1年となる。したがって大名たちは江戸に屋敷を構える必要があり、藩士たちの滞在を考えねばならなかった。さらに大人数の移動である大名行列は大変な出費となる。これを支えたのが国元である。一方 全国から大名と藩士が集まるのだから、江戸はそれを支える町人の人口も増え豊かな街を形成していく。今も江戸時代も地方から中央に富は集中している。そして参勤交代により、江戸の文化や品物が地方へ伝わることになり、街道筋が繁栄した。また大名たちは地方で密かに力を蓄えるのが難しかった。

参勤交代は幕末まで続き、ペリーが来てからは、それどころではなくなり大幅に緩和され、幕末には実質なくなった。その間、享保の改革をやった8代将軍吉宗が財政難から各藩に石1万石につき100石を上納させる上げ米の制を行った時に在府6カ月になった。しかし財政状況がよくなると上げ米をやめ参勤交代も元に戻した。

参勤交代には細かい決まりがある。参勤時期は外様大名は4月、譜代大名は6月と8月に決められていた。参勤の前には参勤伺いをして、発駕の期日を指示してもらう。参勤交代の人数は百万石の金沢藩が4000人で、普通の大名は150人から300人ぐらいだった。行列は他大名の領内を通ることから、前もって使者を派遣する。一方の通行される側も気を使いもてなす。1日に進む距離は8里から10里。40キロも歩いているわけだ。
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「天災から日本史をよみなおす」 磯田道史

2017/01/08 22:32
「武士の家計簿」で注目を集め、NHKの「英雄たちの選択」に出ている磯田道史氏は、東日本大震災後に浜松の大学に移った。来るべき南海トラフ地震に備えて、この地域の歴史を調べるためである。地震のメカニズムを研究する学問は進んでいるけれども、歴史から地震や津波を研究する学問は発達していない。古文書を自由に読みこなすことが出来る氏が、自分の使命として立ち上がったわけだ。
南海トラフを震源とする大地震は、史料からみるとおよそ100年ごとに起きている。90年以内に2度起きたことはないし、150年以上あけて起こったこともない。直近では1944年に昭和東南海地震が起き、1946年に昭和南海地震が起きている。それから70年経っているから、南海トラフ地震まであと20年の猶予があるのかもしれない。しかしこの二つの地震は南海トラフの延長である駿河トラフを震源とする伊豆半島あたりを襲っていないから、東海地震を想定している所には160年以上も大地震がおこっていないことになる。南海トラフ地震は必ず起こると考えられ、特に伊豆半島など静岡県東部はすぐにでも起こる可能性がある。
南海トラフの地震は津波を伴う。しかも500年に一度の割合で想定外といえる大津波になる。富士山の噴火も南海トラフ地震と連動している。1707年11月23日に富士山の宝永噴火の前、10月4日 に宝永地震がおきている。
人々は地震と津波の教訓を残してきた。また文書を残してきた。津波が来る前に井戸の水位が低くなることもよくあったようだ。

津波が来たらどうするか。1人だったら逃げおおせたものを、年寄りや子供の面倒をみて津波にのまれてしまった話がよく出てくる。背負い紐をいつもそばに置くべきだと筆者は言っている。「津波が来るから逃げろ」と呼びかけつつ、人のことは考えずに、そして自分の力で自分で動くようにと言っている。そうでないと共倒れになってしまうからだ。
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宗龍寺 丸子町

2017/01/07 22:21
宗龍寺は依田川左岸の金鳳山の麓にある。山には依田城があった。その依田城こそは木曽義仲が根拠地とした城であり、ここで兵を集めたのである。

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宗龍寺は依田城の麓を固める城として機能していたのだろう。曲輪とも見えるいくつもの段状の敷地の中を登っていく。中国風というか竜宮城のような山門に出る。

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山門の屋根が大きく張り出している。

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本堂。

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鐘楼。こちらの寺院の建物は比較的新しいといえど、いずれも立派である。

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宗龍寺の下には扇子池がある。

山の頂にある依田城跡をめざしたけれど、登山口に道が崩れて通行出来ないとの表示があった。陽気が良くなったら、再度トライしよう。丸子に来て、木曽義仲が気持ちに入り込んで来た。思えばだいぶ前に、自転車で中山道を辿り、木曽義仲と芭蕉の墓にもうでていた。その時は芭蕉に気をとられていた。

丸子町には木曽義仲ゆかりの依田城跡のほかに、第一次上田合戦で家康の軍を退けた丸子城跡がある。どちらも今後の課題。
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義仲戦勝祈願の岩屋堂観音 丸子町

2017/01/07 21:33
丸子は松本方面に行く時に何回も通っているし、その時に通りかかる野菜の直売所「あさつゆ」には何度も寄って買い物をしている。けれども、街の出来が理解出来ていなかった。今回は丸子の歴史歩きをしてみた。丸子の町に入って行くと、木曽義仲関連の案内が多いことに気づく。

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「あさつゆ」の右後ろの岩山の中腹に岩屋堂が見える。急な階段を登って行く。

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山門の下まで登る。

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山門の右には「寛政の大石垣」とあり、1797年の大出水で石垣の修復が行われたとの表示。寄進帳には東信濃のほかに北上州の人の名があり、力士の雷電為右衛門の名もある。それにしても、ここまで水が来たのだろうか。田中宿も千曲川よりだいぶ上なのに洪水の被害があったらしいから、後で調べてみよう。

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観音堂。木曽義仲はこのすぐ北の依田城で軍勢を集め、この岩屋観音で戦勝祈願をしたという。

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よく見ると、懸魚の下にキイロスズメバチの巨大な巣がかかっている。

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さらに登ったところに月見堂展望台がある。椅子があったので座る。けれども、崖の先端に張り出した床の上に居ると、すねから下がゾクゾクとして落ち着かない。

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展望台から観音堂を見る。

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山門の下に樹齢800年の義仲桜がある。咲いたら見事だろう。その頃にも来てみたい。


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森と畑の道

2017/01/07 18:38
今日も、カントリークラブの森と畑の道に行ってみた。先日は最後の詰めをゴルフ場内を登ったから、中を通らない道を確認しておきたかった。日東ボタンの敷地のへりを通る。

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北アルプスが見える。

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日東ボタンの下を行くと、ゴルフ場の下に出た。しばらく行くと、先日登って来た道が見えた。向こうの方に藤原田が見える。丸子の市街からひと山はいった平地に開かれた集落である。

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この道に入り込むところは、細くて車が通れない。ちょっと行くと広くなって、藤原田方面からなら軽四輪が入ってこれそうだ。

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こんな山中に畑が耕されている。

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同じ道を引き返して、再び日東ボタンに出る。この広大な敷地にゆったりと建つ建物。駐車してある車も少なくて、一体どんな経営状態なのか不思議。

この森と畑の道、これからしょっちゅう散歩したい。標高差100メートル。ちょっとだけ山歩きにもなる。何よりも、昔の世界みたいのがいい。

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島川原発電所

2017/01/06 17:49
羽毛山から千曲川をちょっと下り、鹿曲川にかかるみまき大橋に行く。

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みまき大橋から東京電力に島川原発電所の変電所が見える。この辺りいつも通っているところだ。今日は発電所の上まで行ってみる。

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発電所横に車道があるものの、途中で侵入禁止になってあとは歩く。急に高度を稼ぐ。

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上り詰めて水槽に出た。向こう側には水圧鉄管に水を取り込む部分で流木除去の柵が見える。

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オーバーフローした水を余水路に取り込む丸い穴。下の方に水路が見えて、ちょっと不気味。

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奥に見える穴からは小諸方面からの水が来ている。小諸懐古園前の千曲川にある西浦ダムからの水と、ダムを利用している小諸発電所で流した水が、ここに流れ込んでいる。右からは鹿曲川からの水を取り入れている。

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小諸方面よりも鹿曲川からの水の方が勢いよく入ってくる。

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下りで上方を見る。水圧鉄管の上にいつも見ている「東京電力 島川原発電所」の文字が見える。

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下方を見る。いつも下を通過している時には、こんなに太いものとは思っていなかった。島川原発電所は昭和5年に発電を開始した。建設のために小諸から布地観音を経て布引電気鉄道がひかれたが、赤字で間も無く営業を終えた。

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羽毛山取水堰

2017/01/06 17:00
羽毛山堤のあたりの千曲川に羽毛山取水堰がかかっている。

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手前の段差を白く流れているのが魚道だろう。

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暗渠を経てすぐ下に沈砂池がある。ここから暗渠や用水を経てちょっと下流の郷仕川原にある塩川発電所まで水が供給される。
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羽毛山堤

2017/01/05 22:52
羽毛山堤は幕末に、千曲川の洪水に備えて作られた。

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1859年の千曲川大洪水の被害を受けた羽毛山地区の人々が小諸藩主の命を受けて5年の歳月をかけて完成させたのが羽毛山堤防(安政の川除・かわよけ)である。堤防長576メートル、その後は洪水から羽毛山地区の人々を守った。

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この辺り、今は桜の名所になっている。

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河原に降りて、千曲川の下流方向を見る。
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外山城址

2017/01/05 22:33
外山城址は千曲川の羽毛山取水堰の左岸の標高差200メートル程の急斜面の上にある。地形図で695.5の三角点のあるところだろう。

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戦国時代に村上氏が佐久進出時に、あるいは武田信玄が上杉謙信との戦いで築いたと考えられる。戦闘における堅固な山城というより、周辺の見晴らしが良いので、見張りや烽火台として使われたらしい。

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三角に盛土がしてある。烽火台ということだろうか。

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眼下に千曲川。遠くには上田の太郎山あたりから湯の丸山、浅間山まで見える。

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すぐ下の左側には、羽毛山の集落があり、千曲川の手前には水田が広がる。

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武田氏滅亡後は依田十良左衛門がここを守ったとある。この近くの鍋蓋曲輪跡にお住まいの方の名前を見ると依田さんが多かったから、依田氏の系統の人達がこの辺りに力を持っていたらしい。


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千曲川をちょっと下って角間川との合流点あたりから外山城址のある台地を見る。
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