旧陸軍弾薬庫跡

シュノーケル体験が終わって上陸すると、案内して下さった方のお友達が陸に居た。同行者が上陸準備している間に、この方とお話をする。海上自衛隊を退職して15年ほどたち、対潜哨戒機に乗って厚木にも居たということで、国防関係のお話を伺う。現在、古仁屋の陸上自衛隊の基地に居るのは10数人だけ。でもこちらにミサイル基地が出来、今日は開所の祝典があるので今から行くという。歓迎のために、これを用意して来ましたと、大きな日章旗を見せてくれた。自衛隊は今、北海道方面から南にシフトして来ているという。

島尾敏雄が加計呂麻島の特攻基地に配属されていて特攻の命令が出たのに2日後終戦になって生き残った。そこでしりあった女性と結婚し、後に「死の棘」を書いたのは頭にあった。でも、奄美大島が戦時中の作戦上、どのように展開していたのかは知らなかった。ただこの後行った瀬戸内町の資料館には奄美大島で、各地区の空襲で焼けた家と犠牲者数の地図があった。数はそれほど多くないものの島全体に被害者がいた。つまり島全体に軍の施設があったようだ。特に加計呂麻島と奄美大島の間の大島海峡はリアス式の入り江が多く絶好の拠点となった。

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  古仁屋の町から10分ほど海岸線を北上して旧陸軍弾薬庫跡を探した。海岸沿いの道路から細い道を入り、大島自動車学校の左側の山の際にあった。入り口に案内板があって、中に入れる。

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 最初明かりのスイッチがあるのに気が付かず、真っ暗の中を恐る恐る進んだ。

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 早々に戻ってきたら明かりのスイッチがあるのに気付いた。管理する人がいないのに自由に入れるのは珍しい。

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 とてもしっかりした構造だ。

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 一番奥に弾薬庫の部屋がある。かなり大きいし、しっかりした出来である。規模・構造とも日本で最も優れた施設であったと記されている。松代の大本営や沖縄の地下壕がほとんど部屋のようなものを持たず、通路だけで出来ているのとは大違い。これだけの部屋だったら大量の弾薬を貯蔵出来たろう。ただし住民は一切気づかず、終戦後になって大島海峡に弾薬が放棄されているのを見て、初めて弾薬庫があったことが分かったという。

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 通路を行くともう一つ同じぐらいの大きさの弾薬庫があり、もう一方の出口がある。

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  もう一方の出口から出た。3月1日

この記事へのコメント

ishiguro
2019年03月04日 14:23
この弾薬庫をいつの段階で、誰が建設したのか、興味深いです。
かなりの労力とお金と資材と時間を伴うはずですから島の方に気付かれずに進めたのは、よほどうまく進め、緘口令も敷かれたのでしょうか?
沖縄の途上にある島々は、なんらかの形で戦時の施設が建設された事と思います。航空機の、不時着用の飛行場もあったのでは?
沖縄戦で、どれくらいの特攻機が出撃したのか詳しい数値はわかりませんが、その頃は、米軍の艦船の対空砲火も、日本機の付近で、日本機を感知して信管が作動する新兵器を備えていたので、直接当たらなくても、墜落したそうですから、少ない零戦の護衛しかつかない特攻機はドンドン落とされたそうです。大和も、奄美大島の相当手前で、味方の直衛戦闘機もなく撃沈された。
74年間も、戦争がなかったというのは、奇跡のような時代なのだと思います。
hanabati
2019年03月04日 17:16
日本軍の施設はもう過去のものかと思っていたら、再びひたひたと南の島に国防の布石がうたれているのだと思いました。
ishiguro
2019年03月05日 01:21
近代の海戦として、日清、日露、太平洋戦争と、戦艦、航空母艦の代表的な戦いを日本は戦ってきて、その意味で、ロシア、中国よりは、現代の艦船の取り扱いには、長けているのではないかなと、素人ながら想像するのですが、願わくば、中国などとことを構えないようにお願いしたいものだと思います。徳川太平260年に並ぶには、まだ、190年も平和である必要があります。

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