マルハナバチのつぶやき

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zoom RSS 大崎の芳水小学校

<<   作成日時 : 2019/03/09 22:27   >>

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目黒雅叙園から目黒川沿いに五反田まで歩く。

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目黒川沿いは桜の木が続いていて、開花はあと3週間ぐらい後か。国道1号に出て、さらに大崎駅の方向に向かう。大崎は私が幼稚園から小学校3年生までの4年間を過ごした所だ。途中、大崎警察署がある。通りかかると囚人の護送車らしい周りを網で囲った車をよく見かけた。それから大正大学。学生たちがやっていた日曜学校みたいのに時々通った。五反田にマーケットがあって、買い物かごを下げて買い物に行く母に飼い犬みたいに毎日ついて行ったものだ。あの頃の目黒川はとっても汚かった。

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大崎陸橋の下の社宅に住んでいた。そのころには、陸橋から降りて来る階段があって、道を挟んだ建物の片隅に住んでいた。

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この建物に企業の名前が残っていた。あのころは石炭を扱っていて、こちらの会社の景気が良くて、父の勤務する会社を子会社にしていた。今は建物だけのようだけれど、広い敷地があって、石炭置き場があった。

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大崎陸橋の上に立ってみる。周辺に高層の建物が並んでいる。

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昔は、よく橋の上に立って貨物列車が何台の貨車を連ねているか数えたものだ。多いので40台ぐらいだった。蒸気機関車が黒煙を上げてやってくると、その煙の中に入って喜んでいた。

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社宅のそばに小さなパン屋があった。そこのたっちゃんは私と同学年で、親同士が仲良くなったので一緒に幼稚園に通うことになった。当時は子供だけで幼稚園に通ったのである。でもたっちゃんは、ものすごく動きがゆっくりで迎えに行くといつも待たされた。この後、いつも遊んでいた方向に歩いていく。この辺りは登りになっていて、右手にお墓があり、まわりが原っぱで良く遊んだものだ。今は見事に整備されている。

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寄木神社の階段。

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寄木神社の境内でもよく遊んだ。今はとても綺麗な神社になっているけれど、かつては古ぼけた神社で、境内もコンクリートで固められてはいなかった。

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思えば、この半世紀でテレビはボケた白黒画面から、クリアーなカラー画面になった。そんな風に都会の風景も一変した。原っぱだの水たまりだの、管理が届いていないものがなくなってしまった。そして外で遊ぶ子供の姿が消えてしまった。

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寄木神社を出て、芳水小学校の裏をかすめて、大崎幼稚園に行く。どこも道路が狭いし、極めて狭い範囲にすべてがある。子供のころは道路も広く見えていたし、もっと広い世界で行動しているつもりだった。

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深谷のはずれから上京して、入ったのが大崎幼稚園。私の父も母も、どちらも50歳の恥かきっ子として生まれていて、さらに私は末っ子だから、いとこはすべて年上。一番上のいとこは父と同じ年。その全て年上のいとこの誰も幼稚園に行っていないから、私がいとこの中で唯一幼稚園に行ったことになる。私の幼稚園入園はなかなか苦労の多いものだった。田舎から出てきて、突然幼稚園に入ったのだから、都会っ子のスピードにはついていけなかった。それに無菌のところから雑菌の繁殖する都会に放り出されたのだから、次々に伝染病におかされた。

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3年間通った芳水小学校は改築中だった。近くに明電舎があり、その社長夫妻が小学校を作って寄付した、社長の名前を取って芳水小学校と命名されましたと、何度も聞かされていた。最近創立100周年を迎えたらしい。

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工事中なので横に臨時の入り口がある。よく見ると、関係者以外は入れないように門扉があり閉まっている。今や小学校は近所の人が散歩しながら敷地に入るなんて時代じゃないのだ。芳水小学校は外部のものを全く寄せ付けず、昔を懐かしむなど思いもよらない雰囲気。家に残る入学式の記念写真に写っていた桜の木も、外からはうかがえない。

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でも小学校の横にある品川区立大崎図書館の入り口にある少女像が目に入ってきた。

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これは校舎の後ろの崖の下にあったブロンズ像ではないか。小鳥を抱く少女には見覚えがある。図書館に入って像のことを聞くと、芳水小学校の改築にあたって、臨時にここにあるのだという。この日、唯一会えた昔のもの。胸が熱くなった。昔のものに会えるとどうしてこんなに嬉しいんだろう。

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少女像の下にはこんなプレートがある。

 4年生の時に浦和に引っ越して今も住んでいる。そうすると大崎・五反田はほとんど通らないし、行かない。だから大崎に行ったのはこの半世紀余りで2回目だ。あの頃、時々繁華街に行くとすると、それは戸越銀座だった。電車で行くとすると渋谷だった。駅前にあったのは東横デパートだったろうか、その入り口にはいつも何人かの白服の傷痍軍人が楽器を演奏して、お金を集めていた。今思えば終戦からそれほど時間がたっていなかったのだ。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
今回の大崎についての文章は、なにか、作家の随筆を読んでいるように思えました。 その場所には行ったことがないのに、その頃のことが何やら見えてくるようでした。
僕の小さい頃は、室生犀星の生家近くの久保市乙剣宮(くぼいちおとつるぎぐう)の春秋の3日間の祭礼にはやはり傷痍軍人の方が黒めがねで、手や足を失くされた方が必ずいました。 その乙剣神社は、浅野川へと下る、くらやみ坂へと続いていて、そこを降りると、主計町(かずえまち)の茶屋街に続いていて、時折、見番の二階から三味線の音が漏れてきていました。
表通りから一本を入った裏通りになると、舗装していない道はデコボコで、雨のときは、ピチピチチャプチャプという具合でした。 農道まで舗装し尽くされている今からは、想像もできない時代だったと思います。
Ishiguro
2019/03/10 00:14
傷痍軍人は金沢にも居たのですね。私には渋谷というと、デパートよりも傷痍軍人の姿が焼き付いています。
hanabati
2019/03/16 16:03

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